【河出書房新社】
『処刑列車』

大石圭著 



 人間を描くこと――まぎれもない生きた人間を、そしてそんな人間たちが、あるときは築き上げ、あるときは打ち壊していくさまざまな関係を描くことで、「人間とは何か」という究極の命題を読者に問いかけるのが、小説のあり方だと私は考えていた。だが、そのような旧来の小説のあり方をいともあっさりと拒否し、それでもなお小説という形を築くことができるのが、大石圭という作家の最大の特徴だと言うことができるだろう。じっさい、著者が書く小説の登場人物たちは、どれも驚くほど人間臭さを感じさせないものばかりである。そこにいるのは、人間と同じ姿形をした、しかし人間とはまったく異なる怪物――著者は、人間に特有の感情や理性といったものすら超越してしまった者の姿を描くことで、私たちが縛られているあらゆる倫理観や道徳を打ち壊し、生きている人間のために機能する社会のあらゆる矛盾を、生きている人間の目の前にさらけ出す。それはまるで、美女の腹を裂いて内臓をぶちまけることで、人間の本来もっている醜い部分を見せつけてやるかのごとき悪意だ。だがそれは、まぎれもなく私たちの心の奥底にも存在する悪意でもある。

 私たちは普段、意識するしないにかかわらず、そうした悪意に目をそむけ、かたく蓋をして閉じ込めている。もちろん、そうしなければまともな社会生活をおくることができなくなるからに他ならないのだが、それはあくまでこの世に生まれ出た者たちの言い分であり、生まれてくることさえ叶わなかった者たちには関係のない話だ。本書『処刑列車』のなかで起こった一連の事件は、運悪く――そう、まさに運悪く生まれられなかった者たちの悪意によって引き起こされた復讐劇なのだ。

 小田原始発の東海道線「快速アクティー」東京行き。朝のラッシュアワーを過ぎて車内に空席も目立ちはじめた全車両2階建ての快速列車が、茅ヶ崎・平塚間の鉄橋の真ん中で突如停止した。それが、銃を所持した犯人グループによる列車乗っ取り事件のはじまりだった。彼らはまず列車の運転手と車掌を殺害し、さらに乗客数人を射殺、残り数百人の乗客すべてを人質にして、孤立した列車内に立てこもったのだ。しかも、犯人グループは乗客の中にもまぎれ込んでおり、逃げ出そうとする乗客を次々と撃ち殺していく。
 あちこちで聞こえてくる銃声と悲鳴、ムッとたちこめる血の匂い――虚構世界のなかだけの惨事が現実として目の前に投げ出され、かつてない恐怖と混乱で騒然となった列車内を、無表情に――まるで、生まれたときから感情というものを持ち合わせていなかったかのような、無機質な表情で歩き、なんのためらいも躊躇もなく銃を構えて引き金を引く犯人は、老人や中年女性、また幼い少年や少女といった、どこにでもいるごく普通の人たちばかりだった。そしてさらに不思議なことに、犯人グループは、けっして自分たちのことを一人称で呼ぶことがない。まるで、自分という人間の存在そのものを否定するかのように、犯人は「彼ら」という人称を使うのだ。そして、「彼ら」は何も要求しない。つまり乗客を解放するつもりはない、と言うのである。

 それは、列車を乗っ取り、無差別に人を殺すこと自体を目的とした、まさに狂気としか言いようのない行為だったのだ。そんな列車に乗り合せてしまった人たちにとっては、まさに運が悪かった、ということになるのだろう。

 この「運が悪かった」という言葉――いみじくも小渕前首相が同様の発言をして大問題になった言葉でもあるが、「運が悪かった」という、ただそれだけの理由で命を奪われるとするなら、生きている人間にとってはたしかに理不尽この上ない仕打ちだろう。実際、本書の中で殺されていく人間たちが、その死の間際に共通して抱くのは、「どうして自分だけがこんな目に」という思いである。その殺戮に理由がないとすれば、なおさらだ。だが、それならば、生きている人間の身勝手な思惑で「処理」されてしまう胎児の命はどうなるのだろう。あるいは、子ども欲しさに体外受精した卵を体内に受け入れ、その結果育ってしまった五人の胎児を二人に減らさなければならなくなったときの、その「運が悪かった」三人の胎児の生命はどうなのだろう。この世に生まれていない以上、胎児は人間ではない、とでもいうのだろうか。

 いつだったか、水子供養で有名な鎌倉の寺の片隅で、若いカップルが小さな地蔵に跪いて祈っていたのをサユミは思い出した。――(中略)――両手を合わせて女は涙ぐみ、男が女の背を撫でていた。「大丈夫。きっと許してくれるさ」男が女にそう呟いたのを聞いた瞬間、サユミは彼らの前に並ぶ地蔵を蹴散らしてやりたい衝動に駆られた。――(中略)――自分たちが自分たちの都合で殺した者のために祈る彼らの姿は、とても勝手で、虫がいいように思えて我慢がならなかった。

 運悪くこの世に生まれてこられなかった者たちの、現在運良く生きているすべての生命体に対する底知れぬ悪意――その悪意が、この世に生を受けながら、その生というものにまったく価値を見出すことのできない者たちの乾いた意志と結びついたとき、あたり前のように生きることを満喫している奴等に、自分たちと同じ「運の悪い死」というものを突きつけてやろうという、恐るべき列車乗っ取り計画を実行させてしまったのである。

 そのあまりにも純粋な悪意の前には、人間の抱くどんなヒューマニズムも、自己犠牲の精神も、美しい人間愛も何の意味ももたなくなる。また、相手が子どもであるとか老人であるとかいった違いも、同様にまったく無意味である。むしろそういったものを持ちかける者たちに、「彼ら」はむきだしの悪意を叩きつけるのだ。たとえば、人質ひとりの命とひきかえに、人質ひとりを解放する、といったやり方で。そのあまりにも深く、あまりにも強烈な心の闇の前に、私たちはただ戦慄するしかなくなる。そして、鉄橋の上で止められた列車から発生した悪意は、列車内のすべての人間の中にある悪意を引き起こし、さらにテレビやラジオ、インターネットといったメディアに乗って、日本じゅう、いや世界じゅうの人間の悪意を引っ張り出していく。

 世の中は悪意に満ちている――それは自分の心の中に巣食う悪意を否定できないのと同じように、けっして否定できない事実である。本書は列車の中の出来事ばかりでなく、列車の外にいる、今回は「運が良かった」人間の心の闇にも目を向けている。列車乗っ取り事件が発生してから、警察にかかってきた「犯人」と称する電話の、およそ何の意味もない要求の数々、また「列車の外にいる犯人」と称して、悪質ないたずらを繰り返す人々、恋人を見捨てて列車から解放された男の家族に対する嫌がらせの数々、そして自分の息子の死を願う母親――おそらく著者は、世の中にあるさまざまな矛盾、たとえば生命を尊ぶようにと教えながら、死刑や妊娠中絶といった合法的殺人を認めているという矛盾の存在を、誰よりも理不尽なものとして感じることができるのだろう。そしてすべての人間に、生まれられなかった者たちの代弁者として、問いかけようとしているのだ。「なぜお前たちは、この世の矛盾をまのあたりにしながら、平気な顔をして生きていけるのか」と。

 生きることの喜び、人間が持つ想像力の素晴らしさ――それは未来を信じ、未来に生きようとする人たちにとっては福音の言葉となるだろう。だが、人類が、人類であるがゆえに、これまでの長い歴史のなかで犯してきた数々の罪を思うと、そのような言葉もただむなしく響くだけだ。私たちが過去に犯した罪はけっして消えない。殺された者は殺した者をけっして許しはしない。

 5−3=2という等式が、はたして正しいのかどうか――それは、本書を読んだ者が各自で判断するしかないのだろう。(2000.04.20)

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