【朝日新聞社】
『官能小説家』

高橋源一郎著 

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「文学は死んだ」――それがはたして本当なのかどうかは、とりあえず脇に置いておくとして、いったいいつ頃からそんなことが言われるようになったのだろうか。もう何十年も前から言われつづけているようにも思えるし、あるいはつい数年前からのようにも思えるのだが、ひとつだけ確かなことがあるとすれば、それは文学が衰退しようとしまいと、大部分の人たちにとっては大きな関心事ではない、ということであろう。

 そもそも「文学」とは何なのだろう。私もこれまでそれなりに小説を読みふけり、また「文学」とは何なのか、ということの解を求めていろいろな文献をあたったりしたことがあるが、考えれば考えるほどわからなくなる、というのが正直なところだ。あるいは、そんな代物は、じつははじめから存在していなかったのではないか、とさえ思ってしまうほどだが、では今では「文豪」などと呼ばれている明治・大正の作家たちは、どうなのだろう。自分たちが「文学」を担っているのだ、という意識が、はたしてどこまであったのか。世に小説と呼ばれるものが溢れ、その大部分は娯楽のため、教育のため、情報伝達のため、真実を訴えるためと、さまざまな役割をもっているものだが、ときにそうした目的を逸脱した――ただ「書きたい」「書かなければ」という狂おしいまでの欲求に突き動かされるようにして生み出された作品も存在し、その魂に共感する読者もまた存在する、ということだけは断言できる。

 そこにあるのは、強烈な自己主張だ。むろん、小説に限らずあらゆる文章表現が人の手を介する以上、そこには必ず自己主張の要素があるのだが、そこにプラスアルファの要素を付加することなく、純粋に自己主張のみを目的に――つまり生きがたい現実を生きるために書かれ、それが読み手の心をふるわせることになれば、その小説はその読み手にとっての「文学」となるのではないだろうか。

 本書のタイトルである『官能小説家』には、いみじくも「官能」という、肉体がもたらす快楽と、「小説」という、言葉がもたらす精神の快楽の、対極に位置しながらもどこかで結びつこうとする要素が内包されている。そしてそれを証明してみせるかのように、本書の構造は、ふたつの流れをもつ物語が、お互いにくっついたり離れたりしながら、あるひとつの疑問に向かって突き進んでいるように思える。それは「作家でありつづけるとはどういうことなのか」ということであり、「小説を書きつづけるとはどういうことなのか」ということでもある。

 いっぽうではタカハシゲンイチロウなる現代の作家が、森鴎外らが登場する明治時代の小説を書き、もういっぽうでは森鴎外なる明治の作家が、タカハシゲンイチロウの登場する未来の小説を書く。しかも、その両方とも書く小説のタイトルが『官能小説家』であるという、メタフィクション的構造を成す本書であるが、現代編ではその「文豪」森鴎外がひょっこり現われて、作者に文句を言い、さらにはどんどん現代という時代に馴染んでいったりするという、毎度のハチャメチャな展開である。そこには「文豪」などというブランドからはまったくかけ離れた、ただ年甲斐もなく流行にトレンディーな、頑固でわがままなジジイがいるだけなのだが、そもそも「文学」の定義すらあいまいなものである以上、「文豪」だって何をもってそう見なされるかわかったものではない、という著者の心がふと透けて見えるようで面白い。

 私たちは誰でも、たったひとつの人生しか選び取ることができない。そして、その人生が苦しく、生き難いものであればあるほど、どこかに別の人生があるのではないか、という、けっしてありえない希望を抱かずにはいられなくなる。もし小説を書くという行為が、そのありえない「別の人生」を想像力によって生み出そうとする行為であるとするなら、現代版『官能小説家』を書いた森鴎外は、たしかに小説という虚構のなかで、まったく異なるもうひとつの自分を生きたと言うことができるだろう。だが、明治版『官能小説家』を書いたタカハシゲンイチロウは、どのような「別の人生」を歩もうとしていたのか。

 明治版『官能小説家』にも、森鴎外はたしかに登場する。だが、その中心となっているのは、むしろ樋口一葉と、彼女に小説を書くことを教えたという半井桃水のほうであろう。小説家になりたい、それも文学史にその名の残るような小説家になりたいと強く願いながら、自分にはその才能がないと知ってしまった彼が、一葉のなかに見出した小説家としての才能――非常に荒削りながら、人を惹きつける自己主張を持った彼女の姿は、文学史のなかにいる樋口一葉ではなく、ひとりの現代女流作家の姿を喚起させる、といえば、もうおわかりだと思うが、モデルやレースクィーン、そしてホステスへと転身しつつ、小説教室へと通い、その才能を開花させた室井佑月がそうだ。かつて、本書の著者である高橋源一郎と結婚し、幸せの絶頂にいるとのろけていた彼女が、その夫の浮気が原因で、わずか2年足らずで離婚してしまったのは有名な話だが、私たち外部の人間が知り得る情報だけでは推し測ることのできない「何か」が、かつてはふたりを結びつけていたことだけは確かだろう。それはいったい、何だったのか?

 世界の前で無にひとしいぼくたちは、ついにその世界の秘密にたどり着くことはできないだろう。そのことによって、ぼくたちは永遠に孤独なまま死んでゆくだろう。だが、ぼくたちはそれでも希望を棄てないだろう。なぜなら、ぼくたちには官能と言葉があって、それは無為に死んでゆくぼくたちに世界から差し向けられた慈悲、いや一つの奇蹟なのだ。

 真実はどうなのか、それはわからない。だが、本書のなかで著者は、桃水であると同時に鴎外であり、彼女の生み出す言葉という精神的快楽を愛すると同時に、彼女の肉体が生み出す快楽をも愛していたのではなかったか。すでに4度の結婚と離婚を繰り返してきた高橋源一郎が、その4度目の離婚という現実を前にして、小説という形の「言い訳」を用いて、カッコ悪くもまったく別の人生を生み出し、決着をつけずはにいられないかった室井佑月という女流作家は、もしかしたら著者にとって、もっとも理想的な「文学」の姿だったのではないだろうか。本書を読み終えて、そう邪推せずにはいられない。

 愛があれば言葉はいらない、などと言うが、ならばなぜ現実に言葉は存在し、恋人たちはお互いに「愛している」という言葉を欲するのか。逆に、恋愛小説ばかり読んでいても、けっしてその孤独が癒されることのないのは、どうしてなのか。私たち人間は、言葉を生み出し、言葉によって世界を定義づけてきた。それは同時に、肉体にとらわれながらも、それでもなお言葉を道具にコミュニケーションをとっていかなければならない人間の悲しい性を表わすものでもある。官能と言葉――このふたつのものに翻弄されながらも、それでもなお追わずにはいられない、カッコ悪いひとりの男の純粋な自己主張が、「文学」として結実した姿が、本書のなかにはたしかにある。(2002.05.15)

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