【講談社】
『追憶の夜想曲』

中山七里著 

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 たとえば、オカマにしろニューハーフにしろ、彼らは生物学的にはけっして女性になることはできないのだが、ごくふつうの、生物学的な女性と比べて、常に自分が女性ではないという意識があるぶん、「女性らしく振舞う」ということについては人一倍気を使うところがある。そしてその結果として、並の女性よりもはるかに女性らしさを醸し出す男性が存在しうることを私は知っている。こうした事例に触れるときにふと思うのは、ただたんにそう「である」ということと、そんなふう「になる」ということとの間には、じつはものすごく大きな差があるのではないか、ということである。

 私たちはふだん、自分が人間「である」ことについて、あたかもそれがあたり前であるかのように思っている。いや、あまりにあたり前すぎて意識することさえなくなっていると言ったほうがいいのかもしれないが、もし、自分のなかに人間「になる」という意識が芽生えることがあるとすれば、それはあたり前であるはずの人間「である」という前提を揺さぶられるようなときだ。そしてここで言うところの「人間」とは、たんに生物学上のものではなく、むしろより精神的な部分のことを指す。

 人として生まれながら、鬼畜にも劣る所業を繰り返す者はけっして少なくはない。だがいっぽうで、まぎれもない人間でありつづけることを意識し、自らを律して生きていく人だっている。その違いを生じさせているものがもしあるとすれば、それは「である」ことに甘んじるか、あるいは「になる」ことを意識しつづけられるか、という点に尽きるのではないか――本書『追憶の夜想曲』は、そんなことをふと考えさせられる作品だと言うことができる。

 この作品の中心人物たる御子柴礼司は、弁護士という肩書きで登場する。あまり素性の良くない高額所得者や、後ろ暗いところのある資産家を相手に、法外な報酬をふんだくることを第一に考える彼のやり方は、お世辞にも世間からの評判が良いとは言い難いものがあるのだが、そのくせ彼の弁護士としての手腕は一流であり、たんに金儲けができればいいという金満弁護士とも一線を画しているようなところがある。そこから見えてくるのは、常に冷徹で計算高く、およそ人間の情など屁とも思っていないような冷たい性格であり、検察側からはもちろん、同じ弁護士側からも嫌われており、本書冒頭では彼に恨みをもつ者に襲撃され、全治三ヶ月の怪我を負わされたばかりということになっている。

 そんな御子柴が、とある刑事事件に興味を示し、その担当弁護士をなかば脅すような形で弁護人を引き受けた。被告人の名は津田亜希子。夫を殺害した罪を問われているのだが、すでに本人の口から殺人の罪を全面的に認める証言が出ており、一審では懲役十六年という判決が言い渡されている。彼女はとくに資産家というわけではなく、事件の内容も被告人の自業自得という面が強く、とくに目新しいところがあるわけでもない。少なくとも御子柴の食指を動かすような要素は皆無のように見えるにもかかわらず、なぜ彼がこの事案に肩入れするのか――というのが、本書で提示される大きな謎のひとつとなっている。

 目的は減刑、手段は被告人に同情すべき事情を収集すること――。
 一度方針を決めてしまえば後は行動するだけだ。

 本書の基本は法廷小説であり、いっけんすると圧倒的な劣勢に立たされている裁判をどのようにして切り返していくかという面白さがある。とくに、御子柴のライバル的な立場を担う検事の岬恭平は、以前に御子柴と裁判で対峙し、完敗させられたという過去をもつだけでなく、検察としての正義感を貫くまっとうな性格の持ち主でもあり、ある意味でひねくれたところのある御子柴とは対極に位置する登場人物である。だが、それ以上に注目すべきなのは、やはり事件の真相という点である。上述したように、事件そのものはきわめて明確のように見える。だが、被告人である津田亜希子はあきらかに何らかの事実を隠しており、御子柴の「自分にだけは真実を告げてほしい」という言葉にも素直に応えようとしない。

 弁護人という立場にある以上、事件の真相が見えてこなければまともな弁護などできようはずがない。いきおい、御子柴は弁護士としてだけではなく、事件の真相を探る探偵としての役割をはたすことになるのだが、彼自身の過去に起こった「ある事件」の件もふくめ、複数の大きな謎を用意したうえで、それらを物語のなかに組み込んでしかるべき結末へと導いていく手法は、前回紹介した同著者の『切り裂きジャックの告白』とはまた異なるものだ。そしてそこには、事件の真相をあきらかにすることに対する、著者なりの矜持の一端をたしかに垣間見ることができる。

 言うまでもないことであるが、弁護士という職業は探偵とは異なる。嫌われ者であるはずの御子柴をことのほか気に入っている前東京弁護士会会長、谷崎完吾が語っているように、弁護士とは依頼人を守り抜くのが使命である。極端な言い方をするなら、事件の真相など知らなくとも、依頼人の利益に沿うような弁護をすることができればそれでいい、ということになるし、そのためであれば虚偽を容認することも厭わない。もし、本書のなかで津田亜希子が事件の真相をすべて御子柴に打ち明けたうえで、彼女の本当に守りたいものを告げていたとしたら、彼はそのためにいくらでも嘘を重ねていたに違いない。彼にとって倫理とか正義感といったものは、「依頼人を守る」という弁護士としての本質と比べれば、一銭の価値もない戯言でしかないし、彼自身もそのことを隠そうとはしない。そう、御子柴にとって事件の真相を探るというのは、あくまで副次的な要素でしかないのだ。にもかかわらず、弁護のために探偵めいたことをしなければならなかったところに、本書の悲劇性はある。

「あんたたちはワルっていう人種を知らない――(中略)――本当に奴らの生態を知りたいのなら泥濘の中に飛び込まなけりゃ駄目だ。奴らに並んで泳ぎ、泥を食み、暗い滑りの中で息をしなけりゃ意味がない」

 岬恭平から「まるでストリートファイトのようだ」と評される御子柴のやり方は、彼の過去を知ればなるほどとうなずけるものであるが、そこにはもうひとつ、隠された彼の矜持をうかがうことができる。それは、利他的な意味での「勝つための手段を選ばない」という姿勢だ。それは自尊心や自己保全といった利己的な理由とは真逆のもの、依頼人の弁護を貫徹するために自ら泥をかぶることすらやってのけるという、ある種の覚悟のことであるが、本書のラストはまさにそんな彼の矜持を象徴するものとなっている。まっとうな人間「になる」ことを常に意識し続けてきた御子柴の、そのすべてをかけた二審の裁判がどのような判決を迎えることになるのか、そしてそのとき、彼の身にどんなことが起こるのか、ぜひ確かめてもらいたい。(2014.01.11)

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