【河出書房新社】
『ロックンロールミシン』

鈴木清剛著 
第12回三島賞受賞作 



 今時の子供や若者をつかまえて、「無気力、無関心、無感動」などと安易なラベルを貼りつけた時期があった。そして、そんな大人たちを嘲笑うかのような、昨今の「キレる」子供や「ムカつく」若者たちを前に、今度は「心の教育」を訴え、「他の誰でもない、確固たる自分自身」を見つけることが大切なのだと説く。だが、それまで不変のものだと教え込まされた価値観が次々と崩壊していく様をまのあたりにしてきた彼らに、そんなことばがはたして通用するのだろうか。
 彼らは、あるいは大人たちよりもよく知っているのかもしれない。「確固たる自分自身」なんて本当は存在しないし、そしてそんなものがなくたって人間は生きていけるのだ、ということを。

 本書『ロックンロールミシン』に出てくる近田賢司は、「これからはコンピュータの時代だ」ということでプログラマーとしての勉強をし、それなりに大きな企業に就職したものの、仕事への意欲をなくして二年足らずでやめてしまい、といって再就職先を探すこともなく、ただブラブラして過ごしている。そして彼の高校時代の同級生である中山凌一はデザイナーの勉強をはじめ、仲間とともにいきなり「ストロボ・ラッシュ」なるブランドを旗揚げし、古いアパートの一室を借りて服を手作業でつくりつづけている。だが、この凌一という男、どうも根っからのいいかげんな性格らしく、自分のブランドを企業の事業として成立させようという気もなく、ただ自分のつくりたいものを、勝手気ままにつくっているだけなのだ。そもそも彼がデザイナーという職業を選んだのも、深い考えがあるわけではなく、「いいじゃんべつに。おもしろそーじゃん」といったノリなのである。しばらくやることもない賢司は、そのアパートにちょくちょく顔を出しているうちに、徐々に凌一たちの仕事を手伝うことになるのだが……。

 何でもない日常、何も起こらないストーリー、そして何も変わらない登場人物――前作『ラジオデイズ』同様、本書においても見事なまでに変化しない物語を描ききっている。そして登場人物にいたっては、ある意味奇異に感じられるくらいにお気楽だ。凌一にしろ、その仲間である椿めぐみやカツオにしろ、おそらくデザイナーという仕事が自分の天職であるとか、服をデザインすることが三度の飯より好きなんだ、とかいった、強い意思をもってやっているわけではない。彼らはいったんは、自分たちのブランドを展示会に出そうと決めて服をつくりはじめるのだが、期間が迫ってきても切羽つまった様子はなく、かえって凌一などはめぐみとホテルに行ってしまったりするありさま。そして、あげくのはてに凌一は出展をやめるといきなり言い出して、それまで苦労してつくった服をいともあっさりとボロキレにしてしまう。
 凌一には、出展をやめることに対する悔しさも、自分がデザイナーであることのプライドも、それまでの苦労に対する惜しみの気持ちもない。その代わり彼は、ひとつの事をいつまでも引きずったりしないし、何かに深く傷つくといったこともない。そしてそれは、めぐみにしろカツオにしろ程度の差こそはあれ、同じようなことが言えるのだ。

 表参道の並木道を歩くのは久しぶりだった。一世紀近くを生きてきた巨大な樹木には若葉が生いしげり、歩道にゆれ動く迷彩柄をつくりだしている。この樹々はとっくに死んでいて、薬物だけで植物としての外観を保っているという話を何かで聞いたことがあった。排気ガスが充満した土のない都会に生える木のほとんどが、人工的な術なしでは生きられないのだと言う。こんなにきらきら輝くものが死んでいるのかと思うと、世の中何が本物で何が偽者なのかわからなくなってくる。

 自分は何が好きなのか、どんな仕事が向いているのか――だが、どれだけ迷ってこれと決めたとしても、その気持ちが一生変わらないという保証はどこにもない。自分の心さえ信用しない若者達。だが、逆に彼等はそのことを認識しているからこそ、つまらないプライドに縛られることもない。「自分探し」など、彼等にとっては何の価値もない。そして、価値のないことをいつまでも考えたりすることもない。彼等は何も考えていないのではなく、考えても仕方のないことを取捨選択しているだけなのだと言える。

 彼等にとっての生きるとは、確かな自分などありえはしないのだ、という認識が原点なのだ。(1999.07.20)

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