【早川書房】
『荒野のホームズ』

スティーヴ・ホッケンスミス著/日暮雅通訳 



 ミステリーというジャンルの定義や起源といったものを考えるのはなかなかにやっかいなことではあるが、もしミステリーが「謎解きゲーム」、つまり読者が探偵として事件の犯人を推理することを主たる目的としてとらえるのであれば、読み手はいわゆる「ホームズ」としての視点を要求される。「読者への挑戦状」を用意し、「謎解きに必要な情報はすべて提示した」ことをある段階で明確にし、以降は「解答編」として物語が進行していく――私も過去にそうした挑戦状のついたミステリーを何作か読んでいるが、残念なことに私の頭脳はホームズには遠くおよばないと気づかされるのが常だったことをよく覚えている。

 では、ミステリーはつまらないのかと言うとけっしてそんなことはなく、今もなおミステリーは私の読書の範囲内に収まるジャンルとなっている。それは、私がミステリーを「読み物」のひとつとしてとらえているからにほかならず、そのさいに読みどころとなるのは、たとえば斬新なトリックとかサプライズ的な結末、背景となる設定の面白さ、あるいは登場人物の人情性や社会的メッセージといったものが挙げられる。前者が「ホームズ」的視点であるなら、後者は「ワトスン」的視点である。事件の真相を解き明かすことは叶わないが、それが可能なだけの洞察力をもつ、ある意味で「変人」である探偵役のそばにいて、あるときはそのおもわせぶりな態度や、いっけんすると奇怪でしかない行動に一喜一憂する――個人的には、探偵の助手として探偵の織り成す物語を追うというのが、ミステリーの読者のひとりである私の立ち位置としてはしっくりくるものがある。

「やめてくれよ、兄貴。あんたはカウボーイであって、探偵じゃないんだぜ」
 ――(中略)――
『そうかい』と兄貴の顔は言っていた。『両方になれるやつだっているだろ?』

 本書『荒野のホームズ』は、そのタイトルが象徴するように、西部開拓時代のアメリカを舞台とするミステリーであるが、本書の語り手であるオットー・アムリングマイヤーこと「ビッグ・レッド」は、兄のグスタフこと「オールド・レッド」とともに西部の牧場を転々と渡り歩く雇われカウボーイである。その世界においてけっして高い身分であるわけでもなく、また教養とは無縁の粗野な労働者にすぎないカウボーイ――だが、そんなカウボーイのひとりが取り出した探偵小説が、兄の運命を大きく変えることになる。それは、イギリスで有名なシャーロック・ホームズの短編のひとつ『赤毛同盟』だったのだが、その話を聞いたグスタフは以来、自分には優秀な探偵になれる素質があるという思いをふくらませ、ことあるごとに独自の論理性と洞察力を発揮して探偵のまねごとをするようになったのだ。

 コナン・ドイルの描くシャーロック・ホームズにおいて、彼の探偵としての名声はイギリス国内ばかりでなく海外にまで広がっており、作品内では黙っていても事件のほうが彼のもとに転がり込んでくるという形式で話は進むが、本書に登場するのはそのホームズに入れあげるアマチュア探偵、しかもグスタフは文字の読み書きもできない無学のカウボーイにすぎない。当然のことながら弟である語り手をはじめ、荒野で生きる者たちが期待するのはあくまでカウボーイとしてのグスタフであって、探偵としての彼ではない。それゆえにグスタフは自然、よけいなことに首を突っ込んでやっかいの種のかかえこむことになる。じっさい、今回の事件の舞台となる牧場、バー・VR牧場にしても、そこの報酬や待遇うんぬんよりも、むしろ何か怪しげなものを感じ取ったからそこで雇われることにした、というのが第一の理由だったりするのだが、予想通りなのか偶然なのか、しばらくもしないうちに牛の暴走に踏みにじられたそこの支配人パーキンスの死体を発見することになる……。

 探偵という職業にあこがれ、自分もいっぱしの探偵になれるに違いないと勘違いするど素人の話といえば、パーシヴァル・ワイルドの『探偵術教えます』を思い浮かべるが、本書で探偵役となるグスタフの立ち位置は道化役というよりは、むしろ「快男児」というイメージが近い。本書を読み進めていくとわかってくるのだが、彼は無学で教養も皆無ではあるが、カウボーイ生活のなかで身につけた自然を読む洞察力があり、足跡や糞、動物の毛といったものを目ざとく見つけ出すことをなにより得意としている。そしてそれは、たしかにシャーロック・ホームズが事件現場において発揮する注意深い観察力と精通するものであるのだ。

 カウボーイとしての図太さや粗野さと、探偵としての洞察力や知性――いっけんすると正反対のように思える要素をふたつながらあわせもつグスタフは、これまで見てきたなかではかなりユニークな存在であることは間違いない。しかしながら、あくまで「自称」にすぎないグスタフが、警察さながらに事件現場をかぎまわったり、雇い主の屋敷に入り込んで捜査をしたりするわけにはいかないし、そもそも雇い主がそんな余計なことを許すわけもない。そこで重要となってくるのが、語り手である弟オットーの存在である。

 グスタフが「ホームズ」であるとすれば、オットーは「ワトスン」、つまり探偵をサポートする助手役ということになるのだが、どちらかといえばグスタフのなかば強引な情報収集に振り回される役というほうがしっくりくる。だが、このふたりの関係において重要なのは、彼らが兄弟であること――それも、一族のなかでは唯一の身内であるという点である。疫病と洪水で家族を失い、厳しい荒野でふたりで力を合わせて生き抜いてきた彼らは、まさに彼らならではの阿吽の呼吸を発揮して、しばしば危機を切り抜けたり、おもいがけない機会をつかんだりする。そして本書において、それはことごとく「探偵」としての振る舞いと結びついている。つまりグスタフが探偵としての役割をはたすために必要な人物こそがオットーであり、唯一の兄弟であること、生活をともにしていることという意味では、たんなる探偵と助手以上の強さで結びついていると言うことができる。

 オットー自身は、兄の探偵かぶれをけっして快く思っているわけではない。むしろ厄介ごとに巻き込まれてしまう兄の性格にうんざりさせられてしまうことも少なくない。だが同時に、オットーは自分が読み書きといったひととおりの教養を身につけることができたのは、兄が自分の代わりに労働を引き受けてくれたおかげであることを充分に自覚している部分もあり、そのあたりがオットーをたんなる「助手」の枠に収まらせない彼の個性ともなっている。

 兄貴はいつも、自分が無学なことを気にしていた。おそらくそれが、探偵をしたり推理をしたいという欲求につながっているんじゃないだろうか。多くの人間が"無教育の者"と"まぬけ"を同じとみなしているが、兄貴はそれがまちがっていることを証明したいんだと思う。

 ことあるごとにホームズの言葉を引用してみせたり、あるいはいかにももったいぶって自分の考えを告げないまま妙な行動に走ったりする兄グスタフと、そんな兄に振り回されつつも、しっかりそのサポートに回る弟オットーのふたりは、紳士の国イギリスにおける探偵と助手の典型がホームズとワトスンであるように、まさにアメリカ開拓時代の荒野における探偵と助手というにふさわしい。洗練とは無縁の荒々しい世界において、はたしてグスタフの探偵としてのひらめきがどのように発揮されていくのが、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.08.16)

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