【新潮社】
『バーデン・バーデンの夏』

レオニード・ツィプキン著/沼野恭子訳 



 人類が言葉という道具によって世界を区切り、秩序づけていくことで共通認識を得ていったように、時間という概念も同じように人間の共通認識のひとつでしかないことを、私たちはふだんの生活のなかでどこまで意識しているだろうか。かつて、時間は共通のものではなく、地域によって、あるいは時代によって、それぞれがバラバラの時間の概念にのっとって生活していたはずであるし、それ以前であれば、太陽の位置や寒暖の差といった、目に見える単純な変化こそが時間の経過をしめす唯一の材料であった。

 そうした、バラバラな時間の概念が人類に共通のものとして統一されていったひとつの契機が、鉄道をはじめとする交通網の発達であり、そこには産業革命という技術革新の力がはたらいていた。言うまでもなく、鉄道の時刻表は、すべての地域で共通の時間の概念をもたないかぎり、成り立たないものだ。現代を生きる私たちは、時間というものがあたり前のものとして――それこそ太陽が東から昇って西に沈むのと同じくらい、当然あるべきものとして認識しているが、それはあくまで私たち人間の都合によって生み出されたものにすぎないのである。そしてそうした概念は、他にも数多く存在する。

 今回紹介する本書『バーデン・バーデンの夏』において、名もなき語り手が汽車の旅に出ているというのは、どのような意味を持ちえるのだろうか、ということをふと考える。なぜなら、本書の語り手は鉄道という、まさに「人類の秩序の象徴」ともいうべき移動手段をもちいていながら、彼が本当に旅しているのは、そうした秩序では推し量ることのできない時空間であるかのように思えるからである。

 そもそも、どうして私はペテルブルグに向かっているのだろう――(中略)――今のレニングラードではなく、当時のペテルブルグに私は向かっている、それはなぜなのだろう? 何のためにこの本を今、車中で読んでいるのだろう?

「今のレニングラード」という言葉からもわかるように、モスクワから汽車に乗り、レニングラードに向かっている語り手は、かつてロシアがソビエト連邦と呼ばれた時代に生きている。だが同時に彼は、自分がレニングラードという名の都市ではなく、「当時のペテルブルク」に向かっていると独白している。ふたつの都市の名前は、名前こそ異なるものの、同じ場所にある都市を指し示すものであり、時代によって名称が何度か変更されたという歴史をもっている。語り手にとって、レニングラードに行くことは、「当時のペテルブルク」に行くことと深くつながっていると言うことができる。そしてその架け橋となっているのが、彼が旅の供としてたずさえている日記――ドストエフスキーの最後の妻アンナの日記である。

 本書を読み進めていってまず面食らうのは、ダッシュ(――)の多用によって途切れることなく続いていく文章である。段落変えはおろか、句点(。)すらなかなか出てないその文章は、まるで語り手の頭のなかに渦巻く未整理の思考を象徴するかのようであるが、その思考がたどりつく先は、決まってロシアの作家であるドストエフスキーが、新妻アンナをともなったヨーロッパ旅行のエピソードであり、『アンナの日記』に記述されているドストエフスキー像である。言うなれば、本書のなかには語り手自身の旅と、ドストエフスキー夫妻の旅が二重になって書かれているのだが、その独特の、切れ目のない文章によって、時代も場所も異なるふたつの旅の境界線がこのうえなく曖昧になり、読み手は容易に時空間を超越していくような感覚を味わうことになる。

 語り手が窓の外を見ていたかと思えば、なんの脈絡もなくドストエフスキーの旅のエピソードへと場面が転換し、フェージャ(ドストエフスキーの愛称)がかつて軍に投獄されたさいのトラウマが語られたかと思えば、次の瞬間には語り手自身の過去へと話は移っていく――それはともすると、混沌としていてこのうえなく難解で読みにくい文章でさえあるのだが、こうした文章であえてひとつの物語を書くことの意図を考えるには、そもそも私たちが文章を書くということの意図について、思いを巡らせる必要がある。

 作家が小説という表現形式で物語を書くのは、単純な言葉では到底片づけることのできない複雑な思いを、あえて文章として表現したいという欲求ゆえのものである。それは、言葉で書きつづること、言葉を使って文章化していくことが、混沌とした脳内の思考をある程度秩序づけする役目をはたすものだからであるが、同時に、何かを文章化するということは、未分化な思考状態にあった諸々のものを、ある程度取捨選択してしまうことを意味する。

 本書はふたつの旅のエピソードが語られる物語ではあるが、じつのところ、本書の大半を占めているのは、ドストエフスキー夫妻のエピソードである。文豪ドストエフスキーの二番目の妻であり、彼の最後を看取ったとされるアンナ・グリゴーリエヴナから見た、フェージャ像――語り手自身のこと以上に、人間としてのドストエフスキーのことが書かれている本書の著者にとって、ドストエフスキーという作家の存在がこのうえなく特別なものとして捉えられていることは、想像に難くない。時間や場所といった区切りはもちろんのこと、ともすると自分自身の境界すら解き放って、ひとりの作家のことをまさに自由自在に書きつづっていく本書は、そうした形式でしか表現できない特別な感情に溢れていると言える。

 旅先での外国人との悶着、妻の結婚指輪さえ質に入れてしまうほどの賭博熱、ぬぐいきれない囚人時代の屈辱と、必要以上に妻に対してとってしまう卑下した態度、トゥルゲーネフをはじめとする同時代のロシア作家とのいがみあい――本書に書かれているドストエフスキーは、複雑で、ともすると矛盾さえしている感情にとらわれており、人間としてどこかなさけない姿さえ見えてくるほどであるが、それでもなお、そんな彼のそばにいて、彼を愛していこうとするアンナの態度は、作品のなかでことのほかユダヤ人蔑視の態度を示していながら、それでもなお彼の作品に、作家としての彼に惹かれずにはいられない、ロシア系ユダヤ人である語り手の思いとつながっていく。そうした矛盾した感情を――けっして単純な言葉で片づけることのできない複雑な思いを表現するために本書の文章はあるし、またそのために『アンナの日記』という道具がこのうえなく効果的に作用している。

 けっして万人受けするような文章ではないし、また内容でもない。だが、著者が本書を通していだいていたロシアの文豪への思いがどのようなものであるのか、そして著者が見ていたものの先に何があるのか――言葉にしてしまってはこぼれ落ちてしまうような事柄を、それでもなお言葉にしようとした本書は、あるいはもっとも小説らしい小説だと言えるのかもしれない。(2009.10.04)

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