【講談社】
『QED 百人一首の呪』

高田崇史著 
第9回メフィスト賞受賞作 



 永井豪の傑作マンガ「マジンガーZ」の登場以来、「巨大ロボット」という要素は多くの男の子にとって――いや、もしかしたら女の子もそうかもしれないが――胸躍るロマンのひとつとして君臨することになった。そこにあるのは、ひとりの人間の能力をはるかに凌駕するパワーを、自分の意のままに操ることができることへの快感、満足感の充足であり、これはおもに人間の変身願望の一形態として考えることができるのだが、この「巨大ロボット」という要素が、上述のベクトルとは別の方向への発展をとげることにもなったことは、じつはあまり知られていない。それは、同著者の「ゲッターロボ」の登場以来つちかわれてきた「変形」「合体」という方向性である。

 一体だけでも強大なパワーを誇る巨大ロボットが、さらに「変形」「合体」という要素を経て、今まで以上のパワーアップをはたすという方向性――じつはこの「変形」「合体」機能というのは、物語がはじまった時点では隠蔽されているケースが多い。つまり、巨大ロボットの存在自体が「謎」を含んでおり、「変形」「合体」というキーを用いることによって、一種の「謎解き」が行われるという過程が、物語のなかに付加されるのである。これは個人の変身願望というよりは、むしろ謎を解き明かすミステリーとしての方向性であり、たとえばゲーム「ポケットモンスター」における「進化」の概念や、あるいは大塚英志が『定本 物語消費論』でとりあげた「ビックリマンチョコレート」における、隠された「共同体」の概念といったものにつながるものだと言える。そして言うまでもないことだが、子どもたちはもちろん、私たちミステリー好きの大人にとっても、そうした謎の存在と、その謎解きという要素はじつに心惹かれるものなのだ。

 新興の総合商社「サカキ・トレーディング」のワンマン社長、真榊大睦が、自宅の寝室で殺害された。年に一度、大睦の子どもたちが一同に集まる正月の夜の出来事だった。だが、大睦が殺されたと思われる時刻の、関係者全員のアリバイは証明され、捜査は暗礁に乗り上げていた。唯一の手がかりは、被害者の手に握られていた一枚の百人一首の札のみ。はたしてこれは、被害者のダイイング・メッセージなのか……?

 以上が本書『QED 百人一首の呪』のおおまかなあらすじであるが、これだけを取りあげてみると、いかにもよくありがちなミステリーの展開である。しかもあからさまに配置された、百人一首のダイイング・メッセージ――もし、本書の内容がこれですべてであるとするなら、私でなくてもあまり読み進める気にならなくなってくるところであるが、本書の本質的な面白さは、この大睦殺人事件ひとつだけを取り出して論じることができない部分にこそある。被害者の大睦自身、熱心なコレクターであり、またマニアでもあった百人一首――歌詠みに関しては稀代の天才だった藤原定家が、それこそ当時星の数ほどもあったであろう無数の歌のなかから、あえて百首を選んで編纂したという「百人一首の謎」と、前述の「大睦殺人事件の謎」のふたつが、いわば車の前輪と後輪のように駆動することによって、はじめて本書の世界は大きく広がっていくことになる。その絶妙なバランスこそ、本書の大きな特長なのだ。

 じっさい、本書は冒頭こそ「大睦殺人事件の謎」がメインに語られていくのだが、途中でこのミステリーにおける探偵役となる薬剤師、桑原崇がこの事件にからんだとたん、物語はたちまち「大睦殺人事件の謎」から「百人一首の謎」へと大きくシフトしていく。それは、物語の流れでいうならあきらかに脱線なのだが、しかし読み進めていくと、この百人一首をはじめとする、当時の歌や歌人に関するさまざまな薀蓄やエピソード、あるいはその言葉遊び的な要素がいかにも面白いのだ。それこそ、「大睦殺人事件の謎」がかすんでしまうほどに。

 百人一首のはいくつかの謎がある。そして昔から現在に至るまで、実に多くの人々がその謎にチャレンジしている。例えば、百人一首を巧く並べると、ある風景になるのだとか、十×十の魔方陣に組むのが本来の姿だとか、変わったところでは一首一首が六十四卦を表しているのだとかね。

 かつてこの日本において、歌詠みという行為が非常に神聖なものであったことくらいは、私も知っている。言葉には「言霊」と呼ばれるものが宿り、その力によって雨乞いをおこなったり、人を呪ったりもしたと言われている。そしてそれは大抵、五七五七七の和歌の形だった。たかが和歌、たかが言葉と今の私たちはあるいは思われるかもしれない。だが、当時の人たちにとって、和歌がいとしの異性をゲットできるかどうかの重要な口説き文句でもあったことを考えると、言葉――とくに歌詠みというものが、現代とくらべて格段に重んじられるものであったことは、疑う余地のないところだろう。こうした言葉の呪術的側面は、本書のなかでもしつこいくらいに強調されている。だが、そうした薀蓄の数々は、けっしてたんなる知識のひけらかしとして披露されているわけではない。

 あたりまえの話であるが、本書で提示されているふたつの謎は、もちろんふたつとも解決される。だが、ただ「大睦殺人事件の謎」が解き明かされるのと、「百人一首の謎」が解き明かされたうえで「大睦殺人事件の謎」が解き明かされるのとでは、それこそ天と地ほどの違いが生じることになる。そう、本書のなかで解決される「百人一首の謎」は、そのさまざまな薀蓄もすべてひっくるめて、「大睦殺人事件の謎」と、その謎解きに信憑性をもたせるための伏線だったと言うことができるのだ。だがその伏線は、なんと見事な形を成しているのだろう。まったくもって脱帽ものである。

 巨大ロボットは、それ単体でも強いが、数体の巨大ロボットが「変形」「合体」することで、より強大な力を得るように、和歌もまた、それ単体よりも、なんらかのつながりをもって配置されることで、たんなる歌以上の力が得られると考えられた。そんな時代が、かつての日本にはたしかにあったのだ、と考えると、たとえば正月の行事のひとつである「百人一首カルタ取り」もまた、何か深い意味があるのではないかと思わずにはいられない。そしてそれは、まさしく著者の思うつぼであるのだ。(2004.01.04)

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