【ランダムハウス講談社】
『ぼくと1ルピーの神様』

ヴィカス・スワラップ著/子安亜弥訳 



 人生の重要な岐路に立たされて、どちらを選べばいいのかわからないようなとき、人はよく信頼のおける友人などに相談をもちかけるものであるが、そのときその人の心は、どちらを選択するべきかの結論がほぼ確定している状態にある、という話を聞いたことがある。私もずっと昔、自身のこれからの進路について悩んでいるときに、一度だけある人に相談してみたことがあるのだが、けっきょくのところその人が出した結論とは別の道を選ぶことになった。その結果として今の私がここにいるというわけであり、そのとき相談相手とは別の道を選んだ私の判断が、ほんとうに自分の望んでいるものであったのかどうか、私はいまだに確信がもてずにいるのだが、ひとつわかるのは、誰かに相談をもちかけるという行為は、その人に何かを決定してほしいからではなく、自分がすでに出している結論について、より確かなものにしたい、自分の選択が間違っていないという後ろ盾を得たいという気持ちゆえのものだということである。

 何かを判断し、結論をくだし、そして実行に移す――その一連の流れのなかに、基本的に他人の意思が介入する余地はない。しかしながら、たとえそれがその人が本当に欲していることであったとしても、誰もが心の欲するままに行動できるほど強くはないし、その行動にともなう責任が大きければ大きいほど、何かを決意するのに自分以外の何かにすがりつきたくなる。そう、たとえば本書『ぼくと1ルピーの神様』に登場するラム・ムハンマド・トーマスがもっている、幸運を呼ぶ1ルピーコインのようなものに。

 心を決めなくてはならない。大切な一ルピーコインを取り出す。表が出たら彼女に協力しよう。裏が出たらさようならだ。僕はコインをはじく。
 表だ。

 本書の冒頭で、一人称の語り手である青年ラム・ムハンマド・トーマスは、いきなり警察に逮捕される。彼は視聴者参加型クイズ番組「十億は誰の手に?」に出場し、そのすべての問題に正解して見事十億ルピーを獲得したのだが、番組制作側は彼が何らかの不正をしたと頭から決めてかかっており、賞金受け取りを放棄させるために警察を動かしたのだ。だが、ひとりの弁護士が彼の身柄を警察から取り戻す。彼女はスミタ・シャーと名乗り、手助けさせてほしいと申し出たうえで、なぜトーマスがすべての問題に答えることができたのか、教えてほしいと言う。トーマスは孤児であり、学校にもほとんど通わず、教養というべきものはほとんど身につけていない、三流レストランではたらくただのウェイターでしかなかったからだ。しかし、彼はたしかにそのとき出された問題について、すべての答えを知っていた。それは、彼のそれまでの人生――けっして平穏とは言えない過酷で孤独な人生のなかで体験してきたことが、クイズ番組のなかで彼の味方をしたからに他ならなかった……。

 トーマスが出場したクイズ番組は、日本でもフジテレビで放送されていた「クイズ・ミリオネア」のインド版で(発祥はイギリス)、一問正解するたびに賞金の額は大きくなるが、一度でも間違えると賞金がゼロになってしまうというもの。現代のインドを舞台とした本書のなかで、トーマスとスミタは彼の出場した番組を収録したDVDを観ながら、それぞれの問題について彼がその答えを知ることになった背景を語る、という形で物語は進んでいくのだが、本書の最大の特長は、まさにこのクイズ番組の形式と魅力を、作品のなかでも見事に再現している点にある。賭ける賞金が大きくなればなるほど番組が盛り上がっていくのと同じように、本書もまた、問題が進んでいけばいくほど、トーマスの波乱万丈の人生が浮き彫りになっていくと同時に、彼がなぜこのクイズ番組に出場することになったのか、本当に彼は何の不正もしていないのか、そして彼がもつ幸運の一ルピーコインの秘密といった、物語の核心に迫っていくような構造になっているのだ。

 本書を読み進めていって見えてくるのは、現代のインド社会における想像を絶する経済格差の図式である。インドの主要宗教であるヒンズー教は厳格な身分制度である「カースト制」でも有名であるが、日本のゲーム機や高級電化製品の恩恵をあたりまえのように受けて暮らしている富豪がいるいっぽうで、衛生的にも不潔きわまりないスラム街で、座る場所ひとつ、水一杯のことで争いが生まれ、死者が出るような、まさに「犬みたいに生きて虫けらみたいに死ぬ」貧乏人がいるという事実に、あらためて愕然とさせられるものがある。そしてそれ以上に、イスラム教徒との確執の問題や、対パキスタンとの緊張状態といった宗教的、国家的問題をかかえており、そうした事情はトーマスの人生においてもけっして無関係ではありえない。

 そもそも本書の主人公であるラマ・ムハンマド・トーマスという名前自体が、奇しくもクイズ番組の司会者が指摘したように、インドにおける多面性を象徴するものである。ヒンズー教とイスラム教の神の名前をもち、カトリックの神父に育てられた彼の、その命名の複雑な事情は、そのままインドという国がかかえる複雑な事情の象徴でもある。だが、もっとも注目すべきなのは、そうした複雑な事情をとくに振り返るようなこともなく、逆にそうした境遇を武器に、世の中をうまく渡り歩いていくトーマスの、生きることに対するしたたかさだ。たしかに彼は、原爆のほんとうの恐ろしさについて何の知識ももたず、せいぜい「どんな音がするのだろう」とぼんやり考える程度だが、彼なりに戦争とはどういうものなのかをちゃんと学んでいる。平気で子どもを傷つけ、売り物にするような大人たちの存在、あるいは強盗や殺人といった、私たちにとっては非日常というべき事柄に何度となく向き合いながらも、彼はときにヒンズー教としての名前を、ときにイスラム教としての名前を使い分け、私たちと同じように友情を育て、ときには誰かに淡い恋心をいだいたりして生きていく。そうした彼の人生を経てわかってくるのは、トーマスはたしかに教養はないが、そのときそのときの状況において、適切に機転をきかせるだけの知恵を身につけている、ということだ。

 トーマスがもっている1ルピーコインの秘密については、けっして珍しいものではなく、物語の途中でおおよその予想がついてしまうものであるが、それ以外にもそれぞれの章で語られるトーマスの、ぶつ切りになった人生模様が、物語が進むにつれてそれぞれが有機的につながりをもち、それなりの結末をきちんと用意しているという展開のうまさは脱帽ものである。そして彼がその人生の重要な岐路において、何度ももちいてきたコイン・トスが、彼のもつ知恵と機転の最大の証であり、また彼自身の選択に対する一種の祈りにつながるものであることも、同時に見えてくる。そういう意味で、彼が占い師から譲り受けた、貨幣としてはまったく無価値の1ルピーコインは、たしかにトーマスにとっての「幸運のコイン」だったと、読者は納得させられることになるだろう。(2007.08.17)

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