【新潮社】
『旅の終わりの音楽』

エリック・フォスネス・ハンセン著/村松潔訳 

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 イギリスのホワイト・スター・ライン社が所有していたタイタニック号といえば、一九一二年の処女航海で北大西洋を航行中に氷山に激突、千人以上の乗客とともに沈没したという悲劇の豪華客船ということで有名であるが、それ以降、「タイタニック号」という記号がさまざまなところで象徴的な意味合いとともに用いられることになったことを考えても、その事件が当時――あるいは今もなお、人々に大きな衝撃と強い印象をもたらすものであったことは間違いない。

 象徴としての「タイタニック号」として、わかりやすい例を挙げるなら、それは十九世紀という時代の象徴、つまり近代的価値観の象徴という意味合いである。十九世紀は、進歩主義、科学主義、進化論といった形で、近代的価値観が確立されていった時代でもある。科学の進歩が人々の生活を豊かにし、自然の脅威をも克服して誰もが幸福になれると信じられていた時代――そうした十九世紀的価値観の集大成として、当時世界最大にして「沈まない船」と謳われていたタイタニック号があった。けっして沈まないはずの船が沈没したという事実は、そのまま近代的価値観の終焉として結びつくことになった。そしてそれは、それまで絶対だと信じられてきたあらゆるもの、神であれ、存在であれ、知が生み出す真理であれ、そうした確かなものなどどこにもないのだという現代思想の確立、相対主義の時代へとつながっていくものでもある。

 それまで正しいと思われていた道が、じつはそうでないことを知ったとき、私たちは方向転換を強いられることになる。だが、それまで歩いてきた道のりが長ければ長いほど、その方向転換には大きな痛みをともなう。なぜなら、それはそれまでの努力を否定する行為であり、それでなくとも人間は惰性に流されがちな生き物でもあるからだ。時代が大きく移り変わっていくとき、かならずその流れから取り残されるものが出てくる。今回紹介する本書『旅の終わりの音楽』は、そのタイタニック号に乗り合わせ、沈没がはじまってもなお演奏をつづけていたということでひとつの伝説となった楽団員たちに焦点をあてた物語であるが、本書を読み終えて思ったのは、それは楽団員たちを安易に伝説として祭り上げるために書かれたものではない、ということである。

 タイタニック号が沈没する運命にある、ということは、読者である私たちには周知の事実であるし、それは著者にとっても同様である。つまり私たちは、タイタニック号そのものに、すでに「沈没する」という意味合いを含めたうえで、「タイタニック号」という記号を使用し、判断する。だが、当然のことながら本書に登場する人たちは、その事実を知ることはない。だからこそのタイタニック号の悲劇となるわけであるが、こと本書の楽団員たち――けっして有名なわけでも、一流として認められていたわけでもない、当時も今もいくらでもいそうな楽師の寄せ集めにすぎない彼らに焦点をあてたときに見えてくるものが、いずれも大きな喪失であり、またその過去ゆえに、自分のいるべき場所や信じるべきものを見失い、けっして定住することのない船上の楽団として日々を暮らしているという設定を考えると、来たるべきタイタニック号の沈没は、また違った意味合いをもって私たちに迫ってくることになる。

 旅というのは、帰るべき場所、彼らにとっての日常という確たるものがあるからこその旅であり、その前提があってはじめて旅行者は、旅という「非日常」を楽しむことができる。だが、帰るべき場所、日常だと信じていたものを無くしてしまった人たちにとって、はたして日常とはどういう意味をもつのだろうか。旅をすることが常態になった者は、日常そのものが「非日常」ということであり、彼らにとってその境界線は意味をなくすことになる。だが、非日常というものは不安定の象徴であり、その渦中にいる人たちの心を常にかき乱してやまないものがある。一時期であれば、その「非日常」はむしろ娯楽として楽しむこともできる。しかし、人間は非日常のなかで、いつまでも暮らしていけるほど強い心をもっているわけではない。

 医者の息子として生まれ、自身も医者としての未来を渇望されていながら、両親の不慮の死によって、それまで確かだった世界が意味を失い、医者になる理由はおろか、自分が自分であることの意味すら見失ってしまったジェイソン、演奏家としての才能溢れる神童と言われながら、作曲家になるという夢を捨てきれず、けっきょく演奏家としても作曲家としても大成できないまま、家族も、名前さえも捨ててしまったスポット、ウィーンの堅実なブルジョアの家系に生まれながら、初恋の女の子をめぐるスキャンダルで故郷を逃げ出さざるを得なくなったダヴィット――前述したように、彼らの過去に共通しているのは、いずれも大きな喪失をかかえている、という事実である。両親の喪失、恋人の喪失、才能の喪失、あるいは未来そのものや帰るべき故郷の喪失など、その種類は人によってそれぞれ異なってはいるが、その失われたものはいずれも、その人にとっては自分が自分であるための支柱であった、という点こそが重要なところである。そして、それまで拠り所としていた確たるものが、もろくも崩れ去っていくことで、まるで錨を失った船のように漂うしかなくなった彼らの姿は、そのまま十九世紀的価値観の喪失へとつながっていく。

 本書を読んでいくとわかるのだが、この物語はさまざまなイメージをその内にたくわえている。たとえば、天体望遠鏡で星の動きを観測し、あらたな法則の発見が宇宙に流れる音楽を解き明かすという科学への信奉、ロシアの女帝がきまぐれにつくらせたという氷の宮殿の逸話、ギリシャ神話の天地創造、幽霊や妖精といった幻想世界や魔法の存在――それらの雑多な要素は、タイタニック号そのもののリアリティ溢れる描写、そこで働く人々がどこで何をしており、どんな施設があり乗客たちがどのように過ごしていたのか、といった緻密な描写とあいまって、まるでその船内にひとつの小宇宙を生み出そうとしているかのようにさえ思えてくる。どこか古臭く、しかし大勢の過去の人たちを支える支柱として機能していたそれらの世界は、現代ではその価値を失ってしまったものばかりだと言える。

 行き場をなくした十九世紀価値観を乗せて、タイタニック号は大西洋へと針路をとる。その船には数多くの人たちが乗り込んでいる。怒りや悲しみ、人間のもつ偉大さや底知れぬ愚かさといった要素とともに……。本書のなかで語られていく楽団員たちは、言ってみれば目的地のない旅をひたすらつづけるしかない旅人であった。だが、もしタイタニック号の沈没が最終的な、そして究極の「旅の到着地点」であったのだとするなら、彼らはむしろ幸福でさえあったのではないか、という考え方さえ浮かんでくる。タイタニック号の沈没は、現実にはまぎれもない悲劇であったが、そこに象徴としての意味合いをもちこんだとき、タイタニック号の沈没は、終わらせられないものを終わらせるという符号として再構成されることになる。そして、彼らの奏でた音楽は、そうした価値を失ったさまざまな要素に対する一種のレクイエムとして私たちの耳に響いてくる。

「不幸なことだが、きみは抵抗するだろう。それは請け合ってもいい――(中略)――わたしがこれからいうことを忘れるために、きみはあらゆることをするだろう。たとえそれがとても美しく、とても名誉なことだとしても」

 沈没したタイタニック号とともに、何かが終わり、そこから新しい何かが始まっていく。それが不幸なことか幸福なことなのかはともかくとして、世界はそんなふうにして繰り返しをつづけていく。けっして変わらないものなどない。常に移り変わっていく世界のなかにあって、そこに取り残されたものたちに対して、ひとつのけじめとして「タイタニック号の沈没」という記号をもちいた本書に、はたしてあなたはどのような思いを感じとることになるのだろうか。(2009.02.17)

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