【新潮社】
『大統領の最後の恋』

アンドレイ・クルコフ著/前田和泉訳 



 私は以前から、自分には人が人であるために必要な何かが決定的に欠けているのではないか、という疑念をいだいて生きているところがあり、それは白石一文の小説『僕のなかの壊れていない部分』に拠るところも大なのだが、こうした、自分にとって大切な何かが欠けているという感覚は、あるいは誰もが程度の差こそあれ、心のなかにかかえているものなのかもしれない、と最近になって思うようになっている。もちろん、この世に完璧な人間などいるはずがないし、そういう意味では人は誰もが不完全な存在でしかないというのが真実であるが、この人間がかかえる不完全さというのは、ときに人をある方向へと突き動かす大きな要因にもなりえる。

 人は誰かと出会うために生きている、と書いた人は正しい。人は基本的に孤独な生き物であるが、いつまでも孤独と向き合っていられるほど強い人などごくわずかだ。孤独と向き合うことは、他ならぬ自分自身と向き合うことであり、それは必然的に自身のかかえる不完全さ、欠けてしまったものと向き合うことを意味する。欠けてしまったもの、自分に足りないものを補い合うようにして、人と人とが出会う。それはロマンチックな人間ドラマであると同時に、人が孤独をかかえてこの現実を生きていくための処世術でもある。あるいはそれは、人の弱さだと言う見方もあるかもしれない。だが、その弱さゆえに私たちは、お互いに結びつき、つながっていこうという意思をもつことができるのだと考えたとき、私たちの人生はより大きく広がっていく可能性を得ることになる。なんとなれば、私たちはひとりきりでは、ただたんに生きることしかできないのだから。

 本書『大統領の最後の恋』について、書くべきことは数多くあるが、ひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、本書は常に何かが欠けた状態にある主人公が、その欠けたものを補うためのものを求めて遍歴していくという要素を持っている点である。そのタイトルにもあるように、一人称の語り手である主人公のセルゲイ・パーヴロヴィチ・ブーニンは、ウクライナ共和国の大統領である。ただ、彼が大統領となっているのは、五十代のなかば過ぎになってからのことで、時間軸としては2010年以降、近未来の出来事という位置づけとなっている。本書にはそれとは別に、彼が四十代のころの時間軸、すなわち現在と、彼が二十代のころの時間軸、つまり過去に属する時間の流れがあり、物語はこの三つの時間軸を行き来するような形で進んでいく。

 過去の時間軸において、当初はソ連邦だった超大国が崩壊するというイベントを迎え、現在の時間軸においては、ウクライナ共和国はまだできたばかりで不安定な状態にある。そうした経緯を経て、近未来において描かれるウクライナ大統領としての主人公の立場もまた、けっして安穏としたものではない。心臓移植手術を受けたブーニンの体には何の前触れもなく斑点があらわれ、さらに移植された心臓の所有者だと名乗る謎の女性マイヤが彼の生活に入り込んでくる。やがてブーニンは、この移植された心臓に関する、ある種理不尽きわまりない政治的陰謀に巻き込まれることになるのだが、本書においてブーニンがウクライナの大統領であるという要素は、じつのところそれほど大きな意味をもつものではない。もし、本書がウクライナ大統領という要素を中心に動いているのであれば、ただたんに時系列に物語を並べていけばいいはずであり、三つの時間軸を同時進行的に進めていく理由はないからだ。

 じっさいのところ、本書を読み進めていくことでわかってくるのは、近未来の時間軸におけるブーニンが、周囲にいる側近たちからブーニンというひとつの人格であるというよりも、むしろ「ウクライナ大統領」というひとつの役割を担う者という扱いを受けている、ということであり、彼らにとってそこにどんな個性があるのかはたいした問題ではない、ということでもある。そして、まるでそれに呼応するかのように、ブーニン自身もこの時間軸においては、大きな個性を発揮するようなこともなく、ただ流されていくような生活を送っている。まるで、大統領という肩書きが、本人の意思とは無関係に押しつけられたものでしかない、とでも言うかのように。

 大統領になっている時点でいまだ独身でいるブーニンを象徴するのは、孤独である。その心臓さえすでに自分のものではない、自身の家族と言える人たちも傍にはいない、という意味で、彼はその個性とともに人として何か大切なものが欠けた状態にあると言うことができる。もし、残るふたつの時間軸が同時進行で進んでいくことに意味があるとすれば、それはブーニンという個性を補うためのものだ。じっさい、過去の時間軸においては、彼はしばしば愛称である「セリョージャ」と呼ばれているし、その頃の彼には母親も弟もいる。そのなかで、彼は何人かの女性と出会い、ときには結婚に到ることさえもあるのだが、その結婚は結果として、ブーニン自身もその妻も不幸にしてしまう。未来の時間軸において理不尽な孤独のなかで政治をとりしきるブーニンと並んで、過去と現在の時間軸におけるブーニンは、若者の特権である未来への希望や、あるいはひとりの人間として得るべき当然の幸福――あたたかな家庭を築いていくという希望と、しかしその希望がもろくも崩れてしまう悲しみを体験していく。そして、もっとも近しい縁者であるはずの双子の弟がかかえる心の病気は、常に予断の許さない爆弾として彼や母をおびやかしている。

 大統領時代のブーニンが好んで入る水風呂のそもそものきっかけが、後に過去の時間軸におけるあるエピソードとつながっていくといった細かい趣向を積み重ねていき、物語終盤において三つの時間軸が劇的な意味とともにひとつの物語を形成していくダイナミズムが見事な本書であるが、それは見方を変えれば、どうしても欠けたものを補えずにいた主人公が、過去から連綿とつづけていった、そのときは無駄になった努力が少しずつ形をかえて、最終的には欠けたものを補う形となって結実していく過程を追う物語だと言うことができる。そういう意味では、同じく理不尽な状況に置かれた者たちのペーソス溢れる同著者の『ペンギンの憂鬱』とは対極をなす作品でもある。一国の大統領にまで登りつめたひとりの男が、本当に手にしたくて、しかし手には入れられないとなかばあきらめていた幸福――その原因と結果が一気に展開していく本書が、それを読む人たちのなかの欠けたものを、少しでもうるおしていくことを願ってやまない。(2007.07.19)

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