【角川書店】
『犬の力』

ドン・ウィンズロウ著/東江一紀訳 

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 たとえば、誰かを殺せと言われて、はいそうですかと殺すことができる人間は、そうそういるものではない。少なくとも私にとってはそうだ。人なんてとても殺せそうもない。だが、殺す相手にとてつもない憎しみをもっている場合はどうだろうか。あるいは、銃という道具が手の内にある場合は? もしどこかの無法者たちが、「そいつを殺さなければお前を殺す」と脅してきた場合はどうだろう。私は直接的にはもちろん、間接的にだってけっして人など殺したくはないのだが、その気持ちがいつ、どんなふうに殺意にとってかわるのかは、当の本人にだってわからないものだ。少なくとも私は、私という人間を手放しに信頼しきっているわけではない。

 人が人を殺すのに必要なのは、感情の爆発やちょっとした衝動といったものではなく、相手を殺すに足る理屈づけである。人間は理性的な生き物ではあるが、それゆえに、いったん何かに対して理屈づけが完了してしまえば、それがどんなに非道なことであったとしても、実行できてしまうものなのだ。ただしその理屈づけは、かならずしも万人にとって納得のいくものである必要はないし、また法に反しているかどうかといった基準も関係ない。あくまで当人にとって――あるいは一部の集団にとって――その行為を正当化しうるだけの理屈づけさえあれば、人は人を殺しえる。その理屈づけを生み出す力について、私たちは数多くの言葉、たとえば「復讐」とか「恐怖」とか「掟」とか「正義」といった言葉をあてはめてきたが、本当のところ、どのような言葉に置き換えたとしても、私たちの内にあるそうした衝動は、けっして理屈づけなどできないのかもしれないし、そのほうがまだ幸せなことかもしれない。なぜなら、人が人を殺すにたる理屈づけなど、どこかで人であることをやめてしまうに等しいことだからだ。

「――あんたらアメリカ人の買い物のうち、血で汚れてるのは麻薬だけじゃない。石油も、コーヒーも、安全もだよ。あんたらとおれのたったひとつの違いは、おれがすべてを承知のうえで動いてるってことだ」

 本書のタイトルである『犬の力』とは、もともとは旧約聖書の一篇から取ったもので、「訳者あとがき」によれば、「民を苦しめ、いたぶる悪の象徴という意味合い」をもっているものだというが、本書を読み終えたときに私が思ったのは、人が人であることの境界線があるとして、その一線を踏み越えてしまう力こそが、「犬の力」という言葉に象徴されているのではないか、ということである。そして本書のなかには、そんな「犬の力」に翻弄された数多くの人間が登場し、その中心には常に麻薬が鎮座している。麻薬がもつ常習性――人を人でなくするその性質と、そこに少なからず絡んでくる犯罪、という意味においても、本書のタイトルは象徴的であるが、そのなかでもとくに注目すべき人物として、アメリカの麻薬取締局(DEA)の捜査官であるアート・ケラーと、後にメキシコを牛耳る麻薬カルテルの元締めとなるアダン・バレーラがいる。

 このふたりは、言ってみれば犯罪を取り締まる者と犯罪に加担する者、という意味では対極に位置するものであるが、そのじつ多くの共通点を持っている人物でもある。アートは元CIAで、ベトナム戦争の経験者でもあり、物語当初に展開されるコンドル作戦――メキシコの麻薬の元締めであるドン・ペドロ・アビレスを逮捕し、ヘロインの供給源を撲滅するというその任務に生きがいを見出そうとしていた。だがその作戦は、州知事特別補佐官であるミゲル・アンケル・バレーラがドン・ペドロを抹殺し、自分がその元締めに納まるために周到に計画されたものだった。アートは名目としては麻薬撲滅の英雄として祭られたが、じつは麻薬は撲滅されるどころか、メキシコを中継点とする新たな麻薬ルートの開拓に手を貸す形になってしまった。ミゲルの裏切りを誰よりもよく知っているアートは、それ以来その人生をかけて麻薬の撲滅――それらを売りさばく犯罪組織の壊滅に執念を燃やすようになっていく。

 いっぽうのアダン・バレーラは、ミゲル・アンケル・バレーラの甥であり、粗暴な弟ラウルとともに叔父貴が築いた麻薬カルテルの一味としてのし上がっていくが、やがてひとりの女に骨抜きになったミゲルに代わり、麻薬売買を誰にでも扱えるような一種のビジネスの域にまで高めていく。「銀か鉛か」という言葉に象徴されるように、味方になるなら甘い汁を吸わせる権利を与えるし、敵にまわるなら文字どおりその身に弾丸を撃ち込まれることになる――アダン自身はけっして血なまぐさい事柄に手を出すことはないが、暴力はラウル、ビジネスはアダンという役割分担によって、ついには国の政治を左右するようなところにまで食い込んでいくことになる。

 本書は三十年にわたる麻薬戦争の趨勢を書いたものであり、そこには麻薬売買から端を発し、政治的な暗躍や権力との癒着、内部分裂による暗殺や武力抗争といった、これが人間のやることかと目を覆いたくなるような血みどろの戦いが何度も繰り返されていく。そこでは平気で人を裏切り、国家そのものを売り飛ばすような、それこそ想像もつかない底知れぬ悪徳が常にうごめいているし、そのなかには過激な共産主義者やテロリスト、マフィアといった者たちばかりでなく、表面上は麻薬撲滅を謳うアメリカ政府や聖職者といった連中まで含まれている。誰かが誰かを利用するために手を組み、あるいは自身の組織の利益や個人的思惑のためにあえて悪を黙認する――これがすべて麻薬と、それを中心に回っていく資金が引き起こすことであるとするなら、このうえなく恐ろしく、また人間としての根源そのものを疑いたくなるような光景であるのだが、こうした人を人として維持させなくすることをもって本書のタイトルとしたのであれば、著者の思惑はこのうえなく達成されたと言うことができる。

 あるとき、ひとりの人物が唐突に襲撃されて殺される。同じようなことが二件、三件とつづき、それが引き金であるかのように、組織同士の大規模な殺し合いへと発展していくという流れを、まるでNHKのニュースのごとく淡々と描いていくその筆力が圧倒的な本書であるが、その渦中にあり、血で血を洗う抗争の中心人物でありながら、アートにしろアダンにしろ、より大きな権力の思惑によって動かされているところがある。そして麻薬というものはそもそも、人間のちっぽけな理性を根こそぎ吹き飛ばしてしまう代物だ。そうしたことを考えたときに、物語全体を貫くテーマとして、人がいかにして人でありつづけられるのか、という要素が見えてくる。

 本書を読み進めていくとわかってくるのだが、アートとアダンとの出会いはけっして悪いものではなかったし、またそのときは仇敵というわけでもなかった。だが、麻薬カルテルの壊滅にあと一歩まで迫りながら、最後の最後に取り逃がしてしまうということを何度もくり返すうちに、アートは次第に目的のために手段を選ばない、それこそ犯罪者の親類をも利用し、法を犯すことさえ辞さず、さらには内部抗争の火種を意図して撒くことすらしてみせるようになる。それは、麻薬という巨悪を倒すために、自らも悪の力を振るうという彼の執念の表れであり、その執念は確実にアートを引き返せない領域へと連れ去っていくことになる。そしてそれは、アダンにしろ、彼らとかかわった多くの人たちにしろ同じことが言える。

 まるで、一度麻薬に手を出した者たちが、泥沼に引きずり込まれるがごとく中毒患者となっていくように、登場する人物の大部分が人としての道を踏み外し、そして最終的には命を落とすことになるし、そうでない人物もやっぱり死んでいく。本書ではじつに多くの死が描かれるが、面白いことにアートもアダンもそれぞれ家族をもち、それぞれがその家族を溺愛していたりする。それがまるで、彼らがかろうじて人としての意識を保つよすがのように思えるのは、本書内に家族としてのつながりを強調する箇所がないからということもあるのだが、それと似たものがあるとすれば、それはミゲルとの「叔父貴」としてのつながりと、もうひとつはフアン・パラーダ司祭とのある種の友情くらいのものだ。だが、前者は言うまでもなく崩壊してしまい、後者もまた絶え間なき争いのなかで失われてしまう。

 裏切られた怒りによって、親族を殺された恨みによって、人は人を殺していく。その暴力は圧倒的な力で力なき他人はおろか、自分自身すら巻き込んで死体の山を築いていく。そこにあるのが、なかば狂気めいた理屈づけであるとすれば、同じようにアートやアダンが家族や恋人を愛したこともまた、ごくごく主観的な理屈づけの成せる業だと言える。愛することも、憎むことも、すべてを一緒くたに噛み砕いてしまう混沌とした「犬の力」が、はたして登場人物たちをどこへつれていこうとするのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2010.06.24)

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