【新潮社】
『抱擁T・U』

A.S.バイアット著/栗原行雄訳 



 ある女の子がある男性のことを好きになってから、いろいろな紆余曲折を経て、最後には結ばれる――これが若い女性をターゲットにした、いわゆる「ラブロマンス」の基本的なストーリーである。女の子が異性に抱く純な恋心こそが中心の世界であるこうしたラブストーリーは、今ではさんざん使い古され、結果が容易に想像できるものであるにもかかわらず、ハーレクイン社の小説や少女コミックのみならず、多くの物語のなかで今もなお息づいている。それだけ多くの女性に受け入れられている、ということでもあるのだろうが、とすれば、過去においてさまざまな制約に縛られて生きることを強制されてきた女性たちが、自己を自由に解放できる「ラブロマンス」の主人公に酔いしれたように、現在もなお、女性たちは(そしておそらく男性たちも)自由に恋愛を謳歌するには超えなければならない制約につきまとわれている、ということであり、それはおそらく正しい。自分が想いを寄せている相手と結ばれたい、という願望を実現させることの困難さは、今も昔も変わらないものであり、だからこそ「ラブロマンス」なのだとも言えよう。

 夢枕獏の『神々の山嶺』では、イギリスの登山家G・マロリーが所有していたコダック製のカメラが登場する。この作品の冒頭では、G・マロリーがエベレスト登頂に成功したのかどうか、というヒマラヤ登山史をめぐるミステリーという形をとっているが、物語は次第に、過去のG・マロリーではなく、現代に生きるクライマー羽生丈二の物語へとシフトしていく。同じように、過去の秘められた「ラブロマンス」が、現代に生きる男女の恋愛成就の原動力となっていくとすれば、その流れ自体がひとつの壮大なラブロマンスとして、現実の世界をも変えていくことになるかもしれない――本書『抱擁T・U』は、言ってみれば典型的なラブロマンス小説でありながら、そうした可能性を秘めた作品として位置づけることができるだろう。

 ブラックアダー教授の研究助手として、19世紀を代表するイギリスの詩人ランドルフ・ヘンリー・アッシュの研究に携わっていたローランド・ミッチェルは、ロンドン図書館に保管されていたアッシュの蔵書のなかに、書きかけの手紙の下書きだと思われる紙片が挟まれているのを発見した。それまで公開されてきたアッシュの書簡にはない、切迫した何かをその行間に感じとったローランドは、その手紙の受取人がクリスタベル・ラモットであることをつきとめ、クリスタベルの研究をしているモード・ベイリーとともに、その手紙の行方を追ううちに、クリスタベルが住んでいた部屋の中に隠されていた、おびただしい数の往復書簡を見つけるに到る。そしてその書簡は、まぎれもなくアッシュとクリスタベルとのあいだに交わされたものであることを指し示していた……。

 常に理知的で、進化論といった、その時代の新しい科学に興味を持ち、40年にわたって妻エレンと模範的な結婚生活をつづけてきたとされるアッシュと、変わることのない信仰心を持ちつづけ、生涯を独身でとおし、またブラーンチ・グラヴァーという女性と数年間、同じ家で暮らしていたことから、レズビアンでフェミニストの詩人として論じられてきたクリスタベル――あらゆる点で正反対であり、間違っても接点をもちそうにないこのふたりの詩人のあいだに、いったいどのようなロマンスが展開し、その結果どうなったのか、という、おそらくこれまでのアッシュ研究を根底から覆すことになるであろう謎を求めて、ローランドとモードが探索の旅に出る、という意味では、本書はたしかにミステリー的な要素の大きい作品である。

 本書のなかには、アッシュやクリスタベルが書いた詩が多数挿入されている。それらは大抵、各章の冒頭ごとに載せられていて、その詩に含まれる意味を読み解くことで、その章の内容をおぼろげながら察することができる、という演出効果を出すものであるが、アッシュとクリスタベルとの関係が明らかになるにつれて、私たちは必然的に、それらの詩を読み返し、そのなかにふたりの恋愛の影を見出そうとするようになる。

 書かれた詩に、いったいどのような意味がこめられているのか――あくまでテクストのみに目を向けるのであれば、そこには人によってさまざまな解釈が生まれてしかるべきであるわけだが、アッシュやクリスタベルのその当時の思考に触れることで、その解釈はやはり大きな変化を余儀なくされる。研究者たちを興奮される新発見を、読者にも追体験させるように考慮された本書に、たとえば北村薫の『六の宮の姫君』に見られるような謎解きの面白さがあるのは、間違いのないことだろう。

 だが、私たちが考えなければならないのは、本書がミステリーである以前に、やはりラブロマンスだということであり、ローランドとモードの関係が、手紙をめぐる探索の旅のなかで、どのように進展していくか、ということであろう。そして19世紀という時代におこったアッシュとクリスタベルとの邂逅と、その後のロマンスが、20世紀という時代におこったローランドとモードとの出会いと、その後の関係とが、どういった形で呼応していくか、という点も、まさに注目すべきところだ。

 じっさい、ローランドは結婚こそしていないが、ヴァルという恋人がいる、という点でアッシュと呼応しており、モードにもクリスタベルと同じように、レオノーラという親しい友人がおり、どちらも男性嫌いで世間ではとおっている。言ってみれば、ローランドとモードは、アッシュとクリスタベルがおちいったロマンスを再現しているのだ。あるいは、アッシュとクリスタベルとの秘められたロマンスが、ローランドとモードという、もっとも結びつきそうにないふたりの関係に影響を与えた、とも言えよう。そして私たちは、この異なる時代のロマンスをまのあたりにすることで、男と女が惹かれあい、愛し合うようになっていく不可思議な心の動きについて、そして人間である以上、誰にでもおこりえるこの感情が、アッシュの時代とローランドの時代において、どのような意味をもっていたかについて、あらためて思いをめぐらせることになる。

 19世紀という時代は、科学技術が発達し、さまざまな発見がなされてきた時代であると同時に、宗教による信仰心が、必ずしも人々の心の支えとはならなくなりつつある時代でもあった。そして20世紀という時代は、愛とか恋とかいったロマンチックなものはもちろん、科学技術が約束していたはずの明るい未来や、自己の存在そのものにさえ不信をいだき、何を信じていけばいいのかを見失ってしまった時代でもあった。アッシュもローランドも、こうした時代を象徴するような人物として書かれているのは非常に興味深いことだが、このふたりがふたりとも、似たようなロマンスに支配されることになった。おそらく――いや、ほぼ間違いのない事実として――時代や価値観に影響されることのない、人間にとって普遍的に大切なものというのは、たしかに存在するのだ。そして著者は、ロマンスのなかにそれを見出そうとしている。

 ローランドは彼とモードがあるプロットと運命に――それも自分たちのではなく、他の人たちのものらしい(すくなくともその可能性のある)プロットと運命に支配されているのだと考え、一方ではまさにポストモダニストの快楽を、一方ではまさしく迷信的な恐怖を感じた。――(中略)――首尾一貫性と完結性は、現代でこそ流行らないが、人間の奥深い願望であり、しかも人は常に魅惑され、同時におびえながら、それを求めるのだ。

 本書のタイトルの原題である「Possesion」には、「手に入れる」という意味がある。思えば人類はこれまでの歴史において、じつにさまざまなものを手に入れてきたし、また何かを手に入れたい、という尽きることのない欲求こそが、人類をここまで高めたのだと言うことができるだろう。本書はまぎれもなく「ラブロマンス」をあつかった作品であるが、世の中が閉塞感に包まれ、誰もが自信を失いつつある現代だからこそ、人々を駆りたてずにはいられない「ロマンス」に、私たちはもっとその身をゆだねるべきなのかもしれない。(2003.01.29)

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