【早川書房】
『哀れなるものたち』

アラスター・グレイ著/高橋和久訳 

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 少し前に、いくつかのケータイ小説が単行本売上ランキングの上位に入り込んできて、にわかに「ケータイ小説」という言葉がクローズアップされたことがあるが、レイプや妊娠、堕胎、不治の病といった、けっしてリアリティのあるわけではない、しかもランクインされてくるものがいずれも似たり寄ったりの内容である「ケータイ小説」の性質について、作家の池上永一が「都市伝説」と同じものだと看破していたことがある。一時期有名になったケータイ小説は、たいてい本当にあった話であると前もって宣言はするが、それが真実かどうかをたしかめるすべはない。そういう意味で、「ケータイ小説」は小説というよりは、むしろ発信源がかぎりなく曖昧なゴシップ、つまり都市伝説と同義だととらえた池上永一の洞察力は敬服すべきものがあるが、ここでひとつ面白いと思ったのは、「ケータイ小説」にしろ都市伝説にしろ、そこにはいずれも又聞きの構造、ようするに「これは友達の友達から聞いた話だけど」という前置きで始まる物語である、という共通点をもっていることである。

 小説の書き手とその読者とのあいだには、基本的には何も介在するものはない。小説家は直接の語り手であるし、その発した物語を直接受けるのが読者である。だが、擬似的にではあるが書き手と読者のあいだにワンクッション置くような構造をもつ物語がある。私のなかでオールタイムベストのひとつに入る古川日出男の『アラビアの夜の種族』では、著者自身が本書について「The Arabian Nightbreeds」(英訳)を日本語に翻訳したものだと語るのだが、これなどは書き手が書き手であるにもかかわらず、あくまで介在者、又聞きした者のひとりでしかない、といういかにもなスタンスをとることで、少なくともその原書の存在については現実なのではないか、と読者に思い込ませることに成功した作品である。今回紹介する本書『哀れなるものたち』もまた、基本的には同じような構造をもつ作品であるが、本来であれば焼却されるところだったある書物と、それに付随していた書簡を手にした友人を介して、作者自身が編集したものであると語る本書は、その又聞きの構造、ある種のメタフィクションの構造を、書物の存在ではなく、むしろその登場人物たちの実在を読者に信じ込ませるために用いたものだと言うことができる。

 本書の大半をしめるその書物は、スコットランドの公衆衛生官アーチボールド・マッキャンドレスの自伝という体裁をとっているが、そこで中心となっているのは彼ではなく、彼の妻であるベラという女性である。つまりこの書物は、アーチボールドがどのようにしてベラと出会い、どのような紆余曲折を経て彼女と結婚するにいたるのかを記したものだということになるのだが、それによると、このベラという女性は、一度河に身投げして死んだところを、アーチボールドの親友であるゴドウィン・バクスターという天才医師の驚異的な医術によって甦った、ということになっている。しかも、その脳は彼女自身のものではなく、彼女の内に身ごもっていた九ヶ月の胎児の脳であり、二十代の女性の体をもちながら、精神は幼児という、フランケンシュタインも真っ青な創造物だという。

 醜い容姿をもちながら神がかった外科技術をもつ医師、幼児の脳をもって甦った美女、そしてそんな彼女の奔放で大胆な性愛の遍歴――いずれも物語の要素としては妖しい魅力を放っているものの、そのすべてがまぎれもない現実であると受け入れるにはあまりにも荒唐無稽だと誰にでもわかるこの自伝について、重要なのは話のリアリティではない。じっさい、肉体は大人なのに、精神は子どもというアンバランスなベラの存在は、それだけで世の男性の欲望の一端であり、それは言ってしまえば、男にとってじつに都合のいい女ということになる。だが、同時に本書の著者は「調査」と称して、ベラやアーチボールドといった人物がたしかに過去の歴史において、医者として実在したという逸話を挿入するなど、登場人物たちの現実における実在性を高めるために並々ならぬ細工をあちこちに施してもいる。

 自伝そのものがまったくもって現実的なものでないにもかかわらず、その登場人物の実在がこのうえない現実味を帯びているというのは、本書の大きな特長であると同時に、本書を語るうえではずすことのできない重要な核でもある。これが何を意味するかと言えば、実在する登場人物――ここではベラという女性の人物像を書き換えていくためのものとして、アーチボールドの自伝が機能しているのではないか、ということである。

 本書が非常に周到なのは、本書がその自伝の後にベラ(ここではヴィクトリア・マッキャンドレス)によって書かれた書簡を同時に掲載するという構成をとることで、自伝に登場する人たちの人物像とは微妙なズレを生じさせている、という点である。アーチボールドの自伝があくまでアーチボールドの自伝である以上、そこには当然のことながら書き手の意図が入り込む。自分に都合の悪いことは書きたくはないだろうし、ある程度の作話が生じることもあるかもしれない。だが同時に、その自伝が誤りであると書き綴っているベラの書簡についても、同じことが言える。いっけんすると、ベラの書簡のほうがいかにももっともらしいことが書かれているし、少なくともアーチボールドの自伝のように、死んだ人間を生き返らせるといった話よりはよほど信憑性のある話が書かれている。だが、いずれもその当事者の語りである、という意味ではどちらもどっこいどっこいなのだ。しかも面白いことに、どちらもそこに登場する人物の実在はもちろん、その職業や結婚のことについては、まったくの事実として黙認しているのである。

 ある女性の驚くべき出生の謎を知りながら、それを受け入れて結婚をはたしたというアーチボールドの自伝、その結婚自体にたいした愛があったわけではなく、あくまでゴドウィン・バクスターに敬愛の念をいだきつづけてきたというベラの書簡――はたして、そのいずれが本当のことなのか、という問いは、おそらく何の意味もなさない。どちらにしろ、本書の最後にある「批評的歴史的な註」を読むことで、その真偽はますます混迷を深めることになるのだから。本書についてたしかに言えることがあるとすれば、ゆえに本書を読むときは、注釈の部分までしっかり読んでおく必要がある、ということだけだとも言える。

 著者自身の言葉をとりあえず信じるとして、本書が編纂された時点で、アーチボールド、ベラ、ゴドウィン・バクスターは全員死亡しており、またその子孫も残ってはいない。つまり、私たちにわかるのは、そうした名前の人たちが実在した、というだけのことであって、自伝に書かれたことの真偽をたしかめるすべをもたない、ということである。そして私たちに見えてくるのは、登場人物たちがどの程度の狂気に犯されていたのか、ということだけだ。はたしてあなたは、この物語のなかにどのような真実を垣間見ることになるのだろうか。(2008.07.25)

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