【早川書房】
『ヨハネスブルグの天使たち』

宮内悠介著 



 世のなかにはじつに多くの人たちが暮らしている。とくに都会で生活していると、毎日嫌というほど大勢の人とすれ違う。彼らは私と同じ人間ではあるが、同時に私にとってはどうでもいい「その他大勢」のなかのひとりでしかない。そして、こんなにも多くの人が集まっているにもかかわらず、その誰ともつながることなく、まるでありきたりな風景でしかないかのように見てしまっている自分は、いったい何様なのかとふと思うことがある。

 言うまでもなく、私たちは道端に落ちている石ころについて、いちいちそこに「存在する」と認識するわけではない。それは視覚情報としてはとらえられているのかもしれないが、自身の脳が認識の対象から外してしまえば、私はそれが存在することさえ知覚しない。そしてその脳のフィルターは、人間についても同じように作用する。あまりに大勢の人を毎日のようにまのあたりにしてしまうと、そのひとりひとりがまぎれもない人間であり、自分と同じようにかけがえのない家族をもっていたり、笑ったり泣いたりするという認識が、どうしても希釈されてしまう。そしてそのベクトルは、いつしか自分自身に対しても向けられる。自分もまた、大勢の人たちにまぎれこんでしまえば、他の誰とも区別のつかない「その他大勢」と成り果ててしまう。いつでも代替可能な、ただの風景としての私――その存在のあまりの軽さは、ときに気軽であり、ときに憂鬱でもある。

 空から少女が降ってくる、などと言うと、宮崎駿のアニメ映画「天空の城ラピュタ」の有名な一シーンを思い浮かべる方も多いかもしれないが、今回紹介する本書『ヨハネスブルグの天使たち』で降ってくるのは、少女は少女でも機械人形であり、その外見が少女の姿かたちをしているだけにすぎない。それも一体や二体ではなく、幾千もの機械人形が文字どおり雨のように降ってくる。このある意味でシュールなシーンが、本書を語るうえで重要な鍵となってくる。

「スターリンは言ったそうだな。一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だと」
 だれが言ったかは問題ではない。問題は、この不快な指摘に真実が含まれていることだ。人間は悲劇すらをも奪われる。一人の死と百万人の死とのあいだには、非連続性が潜む。
――(中略)――
「俺は、悲劇と統計のあいだの一点を見定めたい」

(『ジャララバードの兵士たち』より)

 本書は表題作をふくむ五つの短編集という形をとっているが、いずれの作品においても少女の形をした機械人形が、なんらかの形で物語のなかにかかわっている。たとえば表題作の『ヨハネスブルグの天使たち』では、前述したように機械人形の存在がまるで自然現象であるかのように語られている。舞台となっている南アフリカでは、今もなお北部と南部に分かれて泥沼化した内戦が継続中であり、戦災孤児のスティーブはヨハネスブルグを拠点に、軍から武器などを強奪して売り払うという危険極まりない方法で日々の生計をたてている。

 毎日決まった時間になると空から降ってくる機械人形は、正式名称DX9。日本製のホビーロボットで、もともとは歌を奏でる楽器として生み出された機械人形だ。かつてはその製品の耐久試験施設として稼動していたその工場は、しかし紛争勃発によって企業が国外退避を決定、施設は管理者不在のままいつ終わるともしれない耐久テストをえんえんと繰り返している。
 DX9の存在は、スティーブたちにとっては金になるはずのものであるが、彼らにとってDX9の捕獲はあまりにリスクが高いという共通認識があるらしく。彼女たちの落下はたんに日常の現象としかとらえていなかったところがある。だが、ある日スティーブは、そのなかの一体の視線を感じるようになる。もしかしたら、ただの機械に過ぎないDX9に自我のようなものが生まれていて、落下のたびに自分のことを見ているのではないか――そのことをたしかめるため、まずはそのDX9となんとかしてコンタクトをとり、彼女を無限に続く耐久試験から救出することができないかと画策する……というのが、おおまかなあらすじと言える。

 スティーブにとって、落下してくるDX9は何の区別もないただの自然現象でしかなかった。だが、あるきっかけを得て「その他大勢」のなかの一体を特別な「個」として認識するようになる。こうした認識の変化は、じつは他の作品においても見受けられるものであり、たとえば『ロアーサイドの幽霊たち』は、ビンツなる登場人物がある瞬間に、自分が本物のビンツではなく、じつはビンツの人格をインストールされたDX9であり、すべてはかつてアメリカで発生した同時多発テロを再現するための壮大な実験であることに気づくというものであるし、『ハドラマウトの道化たち』で軍人のアキトが行動をともにするタヒルは、かつて人間だった頃に自爆テロを敢行したタヒルの人格を転移したDX9である。そして、ここで重要なのは、本書に登場するDX9たちは、いずれも本来の用途――歌を唄うホビーロボットとしての役割とはかけ離れた目的のために用いられていることである。

 少女ロボットであるDX9がどのように使われようと、けっきょくは大量生産されるモノのひとつでしかない、という意味で同じではある。だが、もし彼女たちが楽器という本来の使い方をされていれば、あるいはその購入者にとって彼女は特別な「個」となりうる可能性が発生する。そう、たとえば長年使い込まれたギターが奏者の手になじみ、愛着をもたれるかのように。だが、物語のなかにおいての彼女たちは、それこそ自然現象のごとくただ消費されるだけという扱いだ。旧アフガニスタンを舞台とする『ジャララバードの兵士たち』では、DX9は無人兵器に対抗するための安価な殺戮兵器として使われているし、日本を舞台とした『北東京の子供たち』に到っては、擬似自殺の道具というなんとも倒錯した目的のために屋上から落下しつづけている。だが同時に、そうした本来的な使われ方をされていないがゆえに――言い換えれば、安価であることとそれゆえの汎用性の高さゆえに、もともと日本製だったはずの彼女たちは、国や種別、宗教といった違いを超えて普及し、人々に用いられているという皮肉がそこにはある。

 社長は最初から楽器ではなく人間らしいロボットを造ろうとしていました。しかし人間らしいということはグロテスクでもあるのですね。そこで注目したのが歌でした。DX9は歌を経由することで、ロボットらしさと人間らしさを橋渡しするのです。

(『ロアーサイドの幽霊たち』より)

 彼女たちが歌を唄うことはない。ただ顔のない兵士として、過去を再現する幽霊として、あるいは壮大な道化として、そして落下し続ける天使として、黙々とルーチンワークをこなしていく。ロボットらしさと人間らしさの橋渡し――だが、DX9はむしろその逆の目的のために使用され、そして彼女たちをそうした目的のために作り変えた人間どうしの争いや絶望は、いつまで経っても終わりを迎えそうにない。もし彼女たちに意識が宿ったとして、あらゆる言語や国、文化の差異を超えて、ただ人間を人間としてのみとらえる彼女たちに、世界はどのように見えているのかと自問するルイこと隆一の言葉は深い。自分は何者で、何のために生きているのか、あるいは生かされているのかという問いは、人の形をした機械であるDX9という対象を媒介とすることで、より端的なものとして私たちに迫ってくるものがある。

 この世のあらゆるものに境界線を引き、世界を秩序づけた人間たちは、やがてその境界線ゆえに自他を区別し、区別はいつしか差別となり、同じ人間どうしでありながら何百年、何千年という長いあいだ争いをつづけることになった。その強固な境界をなんとか取り払おうという努力は、けっきょくのところ今もなおうまくいっているとは言い難く、それは本書の世界においても同様である。先の見えないルーチンワークを、それでも黙々とつづけていく他にない私たちは、はたしてDX9とどれほどの違いがあるというのだろうか。そしてそんな私たちに、彼女たちは何を問いかけているのだろうか。(2014.02.12)

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