【新潮社】
『パイロットの妻』

アニータ・シュリーヴ著/高見浩訳 



 私の好きな漫画家のひとり、寺沢武一の『ゴクウ』に登場する主人公の私立探偵は、よく「俺が知りたいのは真実だ」というセリフを口にする。これは、元刑事だった主人公のかつてもっていたであろう「警察=正義」という図式のアンチテーゼであり、ひるがえって今の自分の行為を、善悪といった抽象的観念で正当化しないという強固な意思の表われでもあるととれるのだが、ではその主人公が求める「真実」というのは、はたしてどれほどの価値、どれほどの意味を内包しているのだろうか。

 真実の追究ということで、まず私が頭に思い浮かべるのは、ミステリーにおける探偵役の登場人物である。基本的に彼らは、起こってしまった殺人事件に対して、その真犯人を突き止めるという宿命を負った者たちであり、それゆえに彼らは、いっけん不可解きわまりない殺人事件が「どのように」起こったのかを推理し、真犯人を追いつめていく。この場合、探偵が導き出す真実とはかならずひとつであって、それは言ってみれば、あるクイズに対して用意された、たったひとつの正解という意味合いのものである。だが、大抵の探偵は、真犯人が誰であるのかを突き止めることはできても、その真犯人がなぜ被害者を殺したのか、という「真実」までは突き止めることはできない。なぜなら、犯行の動機というものは、犯行をおこなった当人にしかわからないものであるし、また本人であったとしても、そのとき自分の心にどんな変化が生じ、何を感じたのかといった事柄を、機械のように再現できるわけでもないからだ。

 じっさいに凶悪な犯罪や殺人事件が起きて、容疑者が逮捕され、犯行を自供しはじめたとき、メディアはこぞってその動機の部分を解明しようと躍起になる。まるで、たったひとつの「真実」を明らかにすることこそが自分たちの使命であると言わんばかりの彼らの行動は、とにかくわけのわからないもの、理解しがたい事柄に対する不安を解消したい、という意味で、たしかに世間というつかみどころのないものの思いを代弁しているとも言える。だが、そのあたりの真実についての追求は、おそらく際限のないものへと陥ってしまう運命をかかえている。ひとつの事実が明らかになる。だがその瞬間、その事実がそもそもどうして起きたのかという疑問が生じる、という繰り返し――そんなふうに「真実」というものをとらえたとき、はたして「真実」を追求するというのはどういう意味をもつのか、あらためて考えずにはいられなくなる。

 ある人を好きになって、愛にひたり、愛に濡れそぼっているようなときには、その人物のことは何でもわかっているような気がする。ところが、しばらくたつと、最初に思ったほどには彼のことをよく知らないのに気づくのだ。

 国際便の航空パイロットである夫の操縦する飛行機が墜落した、というショッキングな知らせを受けることになった妻を主体として展開していく本書『パイロットの妻』は、ごく大雑把に語ってしまうならば、キャスリンの夫ジャックの死によってはじめて浮かび上がってきた、ある大きな秘密をめぐる物語である。アメリカとイギリスの合弁会社として設立されたヴィジョン航空に勤務しているパイロットで、勤務成績は優秀だったジャックの操縦する飛行機が、アイルランド沖の海上で空中爆発したという知らせ――パイロット組合から派遣されてきたロバート・ハートによってもたらされたその第一報は、キャスリンの心に大きな衝撃をもたらすに充分なものだったが、その後次々ともたらされる情報は、彼女のなかに確固としてあったはずのジャック、自分の夫としての彼のイメージそのものを揺るがすものとして、彼女の前に迫ってくることになる。

 乗員乗客合わせて百四名を巻き込んだ大惨事ということで、突如としてマスコミの攻勢や航空会社の関係者たちの思惑に巻き込まれ、それまであたり前のようにあった日常が一気に吹き飛んでしまうという状況、それも、最愛の人だった夫の喪失という事実を起点とする非日常への移行をリアルに描き出している本書であるが、この物語の最大の焦点は、妻であるキャスリンが思っても見なかった夫の別な側面にこそある。事故の調査が進むにつれて明らかになっていく不可解な状況、パイロットが自殺したのではないかという憶測、さらに、夫が残していった謎のメモや、詩篇の断片など、少しずつジャックという人間が妻に隠してきたと思われる何かがあらわになっていく。絶え間ないマスコミの取材攻勢からキャスリンたちを守り、個人的にも好意的な態度を崩さないロバートも、どこか何かを隠しているようなそぶりを見せるなか、当初はひとり娘のマティとともに悲嘆に暮れるしかなかったキャスリンは、今回の事故によって出てきた情報の断片をつなぎあわせ、それらの指し示す場所へと向かう決意をする。

 はたして、飛行機事故の真相は何なのか、そしてジャックは、キャスリンたちの家族に何を隠していたのか。ショッキングで痛ましい事件を唐突に告げられ、それまで知っていたはずのつつましい世界を一変されられることになった残された者が、その事件に何らかの決着をつけるために奔走するという意味では、たとえばヤスミナ・カドラの『テロル』と似たような物語構造をもっていると言えるが、『テロル』の場合、妻の敢行した自爆テロという行為のなかにはっきりとした意思の表明があったのに対し、本書の場合、ジャックに何らかの強い意思があったとしても、その内容、あるいはその激烈さといったものがなかなか見えてこない、という違いがある。

 それゆえに、どちらも今はなき配偶者との思い出を回想するシーンがあるものの、その方向性は大きく異なっていくことになる。キャスリンの中心に渦巻いているのは、とにかく「わからない」ということ。物語が進み、新事実が出てくるにつれて、夫のことがますますわからなくなっていく。たしかに自分は夫を愛していた、とくり返すいっぽうで、徐々に距離を置かれるようになっていった結婚生活に思いを馳せたりする彼女の心情は混乱のきわみにあり、だからこそ日常から非日常へと突き落とされた者たちがもつリアリティがあるわけだが、その「わからない」という状況が長くつづけば、いずれ自分もふくめた家族の形が、修復不能なほど壊れてしまうというある種の恐れが、キャスリンを真相の究明へと駆り立てる原動力となっていくところがある。

 誰かを信頼するということと、真実をあきらかにすること――キャスリンにとっては、このふたつの要素が常に対立するものとして立ちふさがっている。そして本書のなかで、ある意味物語の中心であり、キャスリンにとっても中心にいるはずのジャックは、すでにこの世にはいない。本書は、信じるとはどういうことなのか、真実を見出すとはどういうことなのか、ということを考えさせられる作品であるのだが、少なくともジャックの死によってはじめてこの物語が生じるものであり、彼の死によってキャスリンが真実を求めて動き出すのだとするなら、彼女にとっての「信頼」とは、ジャックの存在そのもの、そして彼と自分とのあいだで築きあげてきた生活そのものだったということになる。

 真実を知るというのは、けっして心地よいものでも、カタルシスを得られるようなものでもない。真実とは、それを受け入れられるだけの強固な意思を必要とするものであり、私たちが普段の生活をしていくぶんには、かえって邪魔になるようなものでもある。それゆえに、真実を求めずにはいられない状況に追い込まれたキャスリンの立場は、悲痛このうえないものだ。それまで信じてきたものがすべて瓦解したのちに、はたして何が残るのか、そして人は何を拠り所として生きていくのか、その答えの断片が、本書のなかにはある。(2008.05.07)

ホームへ