【角川書店】
『パイロットフィッシュ』

大崎善生著 



 たとえば、私は占いや風水といったものが嫌いである。それは、べつに占いが本物か、あるいはインチキかといったこととは関係ない。占いと称するものをすることで示される未来が正しかろうが間違っていようが、一度占いの結果が出てしまえば、けっして意志が強いとはいえない私は、その結果に影響を受けずにはいられない。それはまるで、自分の意思とは無関係のところで勝手に未来が決められてしまっているみたいで――もし今後、何か悪いことが起こったとしたら、その原因をすべて占いのせいにしてしまいそうで、それが嫌なのだ。自分の未来を、占いなどという外部の要因によって左右されたくはない。たとえ未来がどんな結果になろうと、まぎれもない自分の意思で決定し、納得したいのである。

 もし誰かに、占いが嫌いな理由を訊かれたら、私はこんなふうに答えることになるだろう。それはいかにももっともな理由ではある。だが同時に、この理由があくまで後付けのものでしかないことは、私自身がよく知っている。私が占いのたぐいを嫌う本当の理由は、かつて、私が好意を寄せていたある女性の影響によるところが大きい。彼女は占いが好きで、何度か私も付き合いで恋愛占いなんかをやってもらったことがあるのだが、その後、私はその女性と関係を深めるどころか、決定的に関係を凍りつかせてしまった。そしてそうなった要因のひとつに、占いの結果を安易に信じた愚かな自分がいる。

 それは私にとってけっして楽しいとは言いがたい、にがい過去の記憶である。そして残酷なことに、過去の記憶というのは大抵、思い出したくもない嫌な思い出にかぎって、何年経ってもふとした拍子に鮮明に脳裏によみがえってくるものである。過去のことなど忘れてしまいたい。現在と、未来のことだけに目を向けていたい。だが、年を経るにつれて、自分に残されているのは、もしかしたら過去の記憶だけなのではないか、と思うことがあるのだ。過ぎ去ってしまった、けっしてなかったことにすることのできない過去の記憶――本書『パイロットフィッシュ』は、そんな過去の記憶をめぐる物語だと言うことができる。

「感性の集合体だったはずの自分がいつからか記憶の集合体になってしまっている。――(中略)――今、自分にある感性も実は過去の感性の記憶の集合ではないかと思って、恐ろしくなることがある」

 本書に登場する山崎隆二は、文人出版という小さな出版社の編集をしている、四十一歳の中年男性である。「文人出版」という言葉のイメージとは裏腹に、エロ雑誌の出版をしているというその会社で彼が働くようになったのは、今から十九年前のこと。そのきっかけをつくってくれたのは、かつて山崎が付き合っていた女性――川上由希子だった。

 山崎の一人称によって語られる本書の冒頭で、彼は電話ごしに由希子の声を聞き、そして十九年も経っているにもかかわらず、それが由希子の声だと即座に判っている自分に気がついている。それは彼にとって、由希子の存在がけっして小さなものではないことを指し示すものであるのだが、ふたりがいっしょだったころの十九年前と、ベテランの編集者となった現在の山崎という時間を行き来するような形で展開していく本書において、たとえば恋愛小説のようにふたりの距離が急速に縮まる、といったようなことはない。そういう意味では、本書は現在でも未来でもなく、過去に目を向けた作品であり、ふたりの関係はすでに終わっている、という共通認識が前提となって物語が進んでいく。

 では、なぜ十九年も経った今になって、由希子はふたたび山崎とアプローチしようと決意したのか。じつは本書を最後まで読んでも、はっきりとした理由はあきらかにされてはいない。ただ、私たちにわかるのは、ふたりがかつて「天国のようにふわふわとした空間を楽しんで」いたこと、そしてその奇跡のような空間はある日を境に壊れてしまい、ふたりもそこから別々の道を進むことになってしまった、ということだけである。

 本書のタイトルにもなっている「パイロットフィッシュ」とは、魚の固有名詞ではなく、熱帯魚などを飼う水槽を最初に設置するときに、魚が生息しやすい環境を整えるためにテスト的に泳がせる魚のことで、たいていは劣悪な条件でも生きていける安くて丈夫な魚が選ばれる。札幌から上京してきたものの、大学にも都会にもなじむことができず、まるで川底に沈みこむような生活をしていた十九年前の山崎を導いてくれたのが由希子であったことは間違いないが、そんなふたりが恋人どおしとして、つかのまとはいえ何の不安もなく幸せを享受できたのは、彼がアルバイトをしていたロック喫茶の店長である渡辺の家族の存在が大きかったのもたしかである。じっさい、渡辺の死によってその「天国のようにふわふわとした空間」は崩壊し、それにともなってふたりの関係も破局を迎えることになるのだから。

 私は熱帯魚を飼ったことはないが、ちょっとした水質の変化で容易に死んでしまうような高級魚も、そんな魚が生きていける環境をつくるためだけに飼われるパイロットフィッシュの存在も、どこか哀しさを誘うものがある。それは、魚たちに意識があると仮定して、彼らの生きたいという願望とは無関係に、その環境によって生死が左右されることから来る哀しさであるのだが、本書を読み進めていくにつれて、読者はその哀しさが、そのまま山崎と由希子の関係にもあてはまることに気がつくことになる。

 ふたりの相手への想いは、けっして失われたわけではなかった。だが、それでもなお、ふたりはそれ以上いっしょに歩いていくことができなかった。優柔不断で、いつも道に迷って同じところをぐるぐる回るように生きている山崎と、自分が正しいと信じた道を迷うこともなく突き進んでいく由希子――たしかに正反対の性格をしているふたりであるが、そんなふたりの意思とは無関係のところで、ふたりの今後の関係が決定づけられてしまったのだとしたら、それはあまりに愚かしく、そして哀しいことである。だが、私たちもよく知っているように、人間というのは基本的に愚かな生き物でもあるのだ。

 縮めたいのに縮まらない距離、埋めてしまいたいのに埋まらない心の隙間――本書に登場する人たちは、誰もがそんな、自分ではどうしようもない何かをかかえて生きている。そしてそれは、現実を生きる私たちも同様である。本書の一番最初に、けっして忘れ去ることのできない過去の記憶と真っ向から対峙しようとした結果、精神を病むことになった山崎の友人の話が出てくるが、たしかに過去の記憶ばかりにとらわれていては、私たちはそこから一歩も前に進むことができなくなってしまう。だが、本書は同時に、過去の記憶がこれからを生きていくうえでの力にもなってくれることを教えてくれる。本書の本質は過去の記憶をめぐる物語であるが、それは同時に、過去を清算し、新しい第一歩を踏み出すための物語でもある。(2006.03.27)

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