【新潮社】
『巡礼者たち』

エリザベス・ギルバート著/岩本正恵訳 



 朝起きて、食事して、会社や学校に行って……といった何気ない日常は、たいていは同じような事柄の繰り返しによって成り立っているものでもある。その繰り返しは、ともすると単調で退屈なものになりがちであるが、逆にいえば、それだけ安定しているということでもある。毎日が変化に富んだものであれば、退屈することはないかもしれないが、そればかりがつづいてしまうと、私たちの心はその変化に対応するための緊張を強いられることになる。毎日が変わらないというひとつの安定は、私たちにとっての安心ともつながっているのだ。そして、だからこそそうした日常の安定したサイクルを乱すような出来事は、何らかの物語性を有することになる。あるいは、物語のきっかけを。

 何らかの繰り返しからなる日常が私たちにとっての「静」の状態であるとすれば、それを乱す非日常的な出来事は「動」と位置づけることができる。もっとも、何気ない日常のなかにもさまざまな動きがあり、そもそも変わらないものなど何もないというのが事実であるが、その事実がすべての人間にとっての真実となるわけではないし、毎日の日常というものは、サイクル的な変化に乏しいがゆえに、ともすると変わらないものだと錯覚しがちでもある。本書『巡礼者たち』は、表題作を含む12の短編を収めた作品集であるが、いずれの作品においても、「静」としての日常のなかにまぎれこんでくる「動」、つまり非日常が、人々の心にどのような変化をおよぼすことになるかをとらえ、描き出すことをテーマとしている。

 本書の短編のうち、前半部に収められたものは、日常のなかに不意に飛び込んでくる非日常、というパターンが多く、その不意打ちの「動」は少なからず登場人物の心を乱す存在となる。たとえば表題作の『巡礼者たち』では、とある牧場を経営している親子のところに、ペンシルバニアから来たという若い女性がカウガールとして雇われるという話だが、語り手の「俺」の視点からすれば、男手ばかりの、肉体労働ともいえる場所に女性が混じるという要素が、この場合におけるひとつの変化であり、日常を乱す「動」の象徴がマーサ・ノックスということになる。荒っぽい男の世界のなかで、まるでそこに自身を適応させようとするかのように過激な冗談をとばし、語り手と言葉でちょっとした駆け引きをしたりするマーサの様子はたしかに魅力的ではあるが、どこか不安定な部分も見逃せない。そうした不安定な部分に対して、それまで「静」の立場に置かれていた登場人物たちがどのような反応を示すのかは、作品によって異なる。『エルクの言葉』などは、オハイオの山奥の一軒家に住むエドとジーンのもとに、突如隣人だと称する家族があいさつにやって来るというもので、ジーンは彼らの言動に言い知れない不安を隠すことができずにいる。

 それぞれの短編は、けっして長いものではない。にもかかわらず、そこにはそれぞれにとっての何気ない日常を営んでいる人々がいて、その日常がふとしたきっかけで揺らいでいく様子が描かれている。その根底にあるのは、言ってみれば人と人との出会いである。これまで知らなかった人と出会うという非日常――そこには当然のことながら、これまでの自分の枠を超えるような何かが、その人からもたらされるかもしれないという期待と不安が入り混じっている。本書の短編のなかでは、そこに期待を見出す場合と、不安を覚える場合のどちらのパターンもあるが、どちらのときも、登場人物たちはそれを受けて、新たに何か動きださなければ、という余韻を残して物語は断ち切られる。過疎化に向かう町の近くで車が故障して、立ち往生する兄妹、なかば強引に鳩撃ちにつれていかれる少年、通りの向かいに新しくできた酒場のオーナー ――断ち切られた物語は、そこで物語が終わってしまうのではなく、そこで起こった非日常が、いずれはもうひとつの「日常」として回帰していく、途切れることなく続いていくという予兆をはらんでおり、人生におけるあるシーンを切り取ってみせるという短編のスタイルとうまくマッチしている。

 本書の後半部になると、同じく「静」と「動」を扱ってはいるものの、不意打ちのように現われる「動」というよりは、長い時間をかけて熟成されるかのように変化してきたものが、ある時点の大きな「動」へと結びついていくような短編が多くなる。そういう意味では、こちらのほうが物語性は強い。たとえば、『デニー・ブラウン(十五歳)の知らなかったこと』では、その中心人物のことを語るさいに、さまざまなことについて「知らなかった」という表現を繰り返していく。だが、その「知らなかった」ことはそれぞれまったくの無関係というわけではなく、何らかの因果関係が見え隠れしており、それらすべてを踏まえたうえで、物語のラストへとつながっていくという構造をとっている。また『華麗なる奇術師』では、奇術師としては才能に恵まれていないエスターが、物語のラストで父に対して見せるあるマジックの素晴らしさを説明するために、彼女の父がピッツバーグに渡った第二次大戦中にまで時間を遡っていくことになる。ごく短い短編であるにもかかわらず、そこに登場人物たちの歩んできた人生が垣間見ることができるという意味で、たしかな人間味が感じられる作品に仕上がっている短編だ。

 いかにも古き良き短編のスタイルを踏襲している本書であるが、広大なアメリカ大陸を舞台としているためなのか、登場人物たちの移動手段として、あるいは自身のステータスのひとつとして、自動車という要素が強いのも本書の大きな特長のひとつだ。短編集の最初にある『巡礼者たち』でマーサが牧場にやってきたのは、「目も当てられないほどのオンボロ車」であるし、ラストを飾る『最高の妻』でも、主役の老女はスクールバスの運転手であり、物語のあいだじゅうバスを運転して移動している。アメリカ人と自動車というのは、その移動手段として切っても切れない関係にあることは間違いないが、その移動するという要素を、本書の根底にあるテーマである「静」と「動」と結びつけて考えると、登場人物たちにとって自動車とは、良くも悪くも変化すること、非日常へと向かうためのものとして機能していると言うことができる。

 変化のない日常は退屈だ。だが、変化のきっかけは常に、当人の都合などおかまいなしにやってきてしまう。そしてそうした変化は、誰の身にも起こりえることである。その変化の瞬間をとらえ、浮かび上がらせることに成功した短編の数々を、ぜひとも楽しんでもらいたい。(2008.02.20)

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