【ポプラ社】
『ピエタ』

大島真寿美著 



 たとえば、私という人間がひとりこの世から消え去ったとしても、世界は何事もなかったかのように存続していくことだろう。それは、宇宙規模における私の存在のあまりのちっぽけさを考えればしごく当然の帰結ではあるのだが、それでも、過去に私と知り合うことになった身近な人たちが、私の不在にほんの少しでも喪失感をおぼえてくれるというのであれば、それは少なくとも私の言動がその人にとって何らかの影響を与えたということになるし、それだけで私の人生はけっして無為ではなかったと言うことができるのだろう。そしてできることなら、人々に悪い影響ではなく、良い影響をあたえられるような人間でありたいと願うのだが、そのためにまず必要なことがあるとすれば、それは私自身がどれだけより良き生き方をすることができたかにかかっているのではないか、と最近になって思うようになっている。だが、この「より良き生き方」というのは、具体的にどのような生き方なのだろうか。

 わたしはヴィヴァルディ先生がどういう人だったのか、知りたいと思っている。――(中略)――コルティジャーナとの関係など微塵も悟られず、ひっそりと天国に旅立たれた先生を、わたしは、心のどこかで称賛しているのかもしれない。そうして、わたしはそこに、なにか、とても、わたしが長い間知りたいと思っていた答えがあるのではないかと感じている……。

 今回紹介する本書『ピエタ』というタイトルは、水の都ヴェネツィアに実在した慈善院の名前であり、またそこで育てられた孤児たちのなかから、とくに音楽の才能に秀でた者たちを育成する音楽院としても名高い施設である。時は十八世紀のイタリア、語り手のエミーリアは、そんなピエタ慈善院で育てられた孤児のひとりであり、今では慈善院の事務をはじめとする経営的な仕事を勤める中年女性であるが、物語はそんな慈善院の音楽教師として、彼女たちと深い関係にあった音楽家のアントニオ・ヴィヴァルディの訃報によって幕を開ける。

 もっとも、彼の死に不審な点はないものの、彼が死んだのが生まれ故郷のヴェネツィアではなく、遠い異国のウィーンであり、その前に彼がピエタの音楽教師を辞し、もうヴェネツィアには戻らない覚悟で旅立ったという事情がある。ウィーンの地で彼の作曲したオペラの公演計画もあったという話であるが、エミーリアや、彼女と同じ孤児であり、その天賦の才能でピエタの<合奏・合唱の娘たち>を支えているアンナ・マリーアたちにとって、多大な恩恵をあたえてくれた偉大な先生であることに変わりはない。

 物語は、そんなヴィヴァルディがある貴族の女性のためにかつて書き残したとされる楽譜の行方を追ううちに、エミーリアのそれまで知らなかったヴィヴァルディの別の側面に迫っていくというミステリー的な展開になっていくのだが、クラシックに詳しくない人でも名前くらいは聞いたことのある歴史上の有名人ヴィヴァルディは、しかし物語のなかで必ずしも強烈な存在感を放っているわけではない。むろん、彼は物語の冒頭ですでに亡くなっているわけで、生きた彼と出会えるのは登場人物たちの回想のなかのみであるのだが、同じような条件でありながら、むしろ物語の主人公として君臨し、読者に強い印象を残す山田宗樹の『嫌われ松子の一生』といった作品もある。では、本書のなかでヴィヴァルディがどのような役割を担っているかと言えば、それは彼の死を喪失感をもってとらえることのできる者たちを結びつけていく、媒体としての役割である。

 つまり、本書のなかでヴィヴァルディはたしかに物語の根幹にかかわる人物ではあるのだが、その物語を担うのはあくまで今を生きる人たちであるということだ。じっさい、本書のなかでエミーリアは、ヴィヴァルディの楽譜の探し手である貴族の女性で、ピエタに多大な寄付を提供してくれるヴェロニカや、ヴィヴァルディの愛弟子のひとりでヴェネツィアのプリマ・ドンナであるジロー嬢とその姉のパオリーナ、高級娼婦(コルティジャーナ)のクラウディアや、ヴィヴァルディが彼女のもとに通うのに利用したゴンドラの漕ぎ手であるロドヴィーゴといった人物と出会い、不思議な縁で親交をもつことになるのだが、これらの人々を結びつけているのは、ヴィヴァルディという音楽をこよなく愛した人物である。そしてそこから見えてくるのは、相手の地位や身分といった浅薄なものに頓着せず、ひたすら自身の音楽の才能のおもむくままに、その恩恵を多くの人たちと共有していくような生き方をしたいと望んだ、ひとりの音楽家の人生である。

 存命中は知られなかったヴィヴァルディの秘密にせまる――などと書くと、いかにもミステリー的な展開であるし、この書評でもそのように上述した。だが、そこには「秘密を暴く」といったある意味で下世話な要素は皆無だ。もっとも、音楽家である以前にカトリックの司祭という身分にあった彼が、たとえば高級娼婦と昵懇な間柄であったというのは、それだけでスキャンダラスなことではあるのだが、そうした事実を知りえてなお、本書全体の雰囲気がきわめて静謐なものに保たれているのは、まさにヴィヴァルディという人物の本質が、純粋に芸術を求めずにはいられないものであるからこそのものであることに、私たちは気づく。

 ヴィヴァルディがなぜ故郷のヴェネツィアを離れたのか、という疑問――だが、本書が進むにつれて見えてくるのは、音楽家という本来の生き方を選択できずにいたヴィヴァルディの姿である。それはけっして不幸なことではなく、人間社会で生きていく以上、どうしても縛られてしまう制約のようなものであり、そういう意味ではエリーリアをはじめ、本書に登場する人たちもまた同じようなしがらみに囚われている。とくにエミーリアについては、自分が孤児であるという事実に縛られ、そしてピエタ慈善院という枠なしでは生きられない人生にもとらわれている。もちろん、ピエタで育てられたことの恩恵については、彼女自身も深く認識してはいる。自分は孤児としては幸せな生活をしている、と。そして、そのことに満足とまではいかずとも、自身の居場所を見出すことができることも認識している。良くも悪くも、彼女の視野はそこから外を想像できるほど広いものではないし、彼女が立ち向かわなければならない現実的な問題も多い。だが、それでもなお、そうした境遇にいることに満足できない人がいることを、エミーリアは知ることになる。

 まったく人というのはやっかいなものだな! 罪の意識が芽生えるとそれを誰かに押しつけようとする。どうせおまえもおなじだろう、と自らの地平に引きずりおろそうとする。澄んだ泉のように、誰かを愛したなら、それがたとえ不義の愛だとしても、他人を貶めたりはしないと思うのだが。

 ままならぬ人生を、それでも懸命に、粛々と生きる人々の姿が美しい本書は、ひとりの音楽家が書き残した楽譜を契機に、その過去が少なからず明かされていく物語である。そこにあるのは、音楽の才能に恵まれながらもその才能を存分に振るうことのできない、しがらみ多きひとりの人間の姿だ。だが、そのしがらみゆえにエミーリアたちは彼と出会い、その才能の恩恵を受けることができた。それがどれほど素晴らしいものであったのかを示す物語こそ、本書なのである。ひとりの音楽家の死を悼むための物語を、ぜひ味わってもらいたい。(2013.06.23)

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