【新潮社】
『重力ピエロ』

伊坂幸太郎著 



 物事を理屈づけして考えるというのは、混沌とした事象を整理し、秩序づけしてわかりやすい形に整え、理解への手助けをするという意味では大切なことではあるが、一度理屈づけされてしまうと、とたんにその理屈が絶対の真実であるかのように捉えられてしまい、その他の可能性や、そこからとりこぼれてしまった瑣末な事象がごっそりなかったことにされてしまう恐れがあることも事実である。人間は、未知のものに対する恐怖をなかなか克服することができない。誰もがわけのわからないものを抱えて日々を暮らしていけるほど、強い精神を有しているわけではないのだ。だからこそ人間は、複雑でわけのわからないものに対してなんとか理屈づけして、未知であるがゆえの不安をとりのぞいたうえで、安心して日々をおくりたいと願う。

 あらゆる事物にはっきりとした形が与えられているわけではないし、あらゆる命題に明確な答えが用意されているわけでもない。だが、弱くて脆い人間の心は、しっかりとした解答を欲せずにはいられない。ときにその欲求が、簡潔で美しい嘘をまぎれもない真実だと人々に信じ込ませてしまうことになるし、また当人の頭のなかでしか成立しない歪んだ理屈が、大勢の人に不幸を撒き散らす結果にもなるのだが、それは逆のことも言えるのではないか、という問いかけが、今回紹介する本書『重力ピエロ』のなかにはある。つまり、世間一般で正しいこと、真実だと認められている事柄が、かならずしも「絶対」と結びつくわけではないし、その真実がかならずしも人を救ったり、幸福にするわけでもない、ということである。

 ピエロは、重力を忘れさせるために、メイクをし、玉に乗り、空中ブランコで優雅に空を飛び、時には不恰好に転ぶ。――(中略)――重力は放っておいても働いてくる。それならば、唯一の兄弟である私は、その重力に逆らってみるべきではないか。

 一人称の語り手である泉水の勤めている仙台市の会社で、放火騒ぎがあった。そこは「遺伝子情報」を扱う企業で、DNA診断や出生前診断など、およそ遺伝子にかかわるあらゆるサービスを行なっているのだが、彼が気になっていたのは、その前日に受けた弟の春からの留守番電話の内容だった。それは、彼の勤める会社が放火に遭うかもしれない、という予言めいたものであり、その言葉どおり、放火が起こった。幸い、ボヤ程度で済んだものの、留守番電話の内容について問いただしたところ、春は事件の法則性について語り始める。ここ一ヶ月ほどのあいだ、仙台市内では放火事件が相次いでおり、その放火現場のすぐ近くには、きまってある特徴的なグラフィティアートが描かれているのだという。春は街のなかに書かれた落書きを消すことを仕事にしていた。だからこそ気がついた法則だと泉水は納得する。

 仙台市で起きている放火事件の犯人を追う――本書の内容をあくまでミステリーとしてとらえるとすれば、まさにこんな感じの文章になるだろうか。そのとらえ方自体は間違いではない。しかしながら、本書の中心を占めているのが単純な謎解きという要素だけでないこともたしかである。では、どういった要素があるのかといえば、それは語り手の弟である春に関係することである。

 たとえば本書の冒頭は、春が高校生だったころの印象深いエピソードからはじまる。同じクラスの高飛車な女の子をレイプしようと計画していた男子たちを、まさにその現場においてバットで殴り倒したあと、自分を助けに来たと勘違いした女の子にも容赦なく一撃を見舞ったというもので、そのとき泉水は春の急な呼び出しに応じて、家のバットを運んできたのだ。泉水にとって、春という弟の存在は、どこか規格外であるということを雄弁に物語るエピソードであるが、そこには春に対する負の要素はまったくない。こうした弟にまつわる過去の思い出が、本書のなかには頻繁に登場することになる。

 絵の才能に秀で、容姿端麗で、人の目を惹きつける魅力をもっているにもかかわらず、およそ性的な事柄にかんして怨讐にも似た嫌悪感を隠さない春――泉水は、彼が実の父親の子ではなく、過去に母親を襲った連続婦女暴行犯の子種であることを知っている。知っていながら両親は春を産み、自分たちの家族として育てるという道を選んだし、泉水もまたそのことを受け入れてきた。それは、口で言うほど簡単なことではなかったであろうことは、想像にがたくない。だが、彼らが味わったであろう心のなかの煩悶や苦悩は、少なくとも物語の表面には表われてこない。逆に言えば、その表われてこない部分こそが、本書をミステリーとして機能させる「謎」にもなっている。

 けれど私にとって、遺伝子の力を全面的に認めてしまうことは、許しがたいことだった。認めたら――(中略)――遺伝子の繋がりが皆無の、父と春はまったくの赤の他人ということになり、春は強姦魔の設計図を身体に巻きつけているということにはならないだろうか。

 いっけん何でもないようなさまざまな要素が、じつはひとつの謎やテーマを指し示すための巧妙な伏線であることが見えてくる本書は、たしかにミステリーとしての要素を持ち合わせてはいるが、本当に重要なのは、たとえば連続放火魔が誰なのか、といったことではない。むしろその目的は何なのかという部分こそが重要であるのだが、本書が一般的な「ミステリー」と呼ばれるものと一線を画しているところがあるとすれば、直接的には何の関係ももたないはずの泉水と春――というよりは、春が、なぜ仙台市内の連続放火事件に執着するのか、という謎のほうを重要視している点だと言える。

 さらに本書がミステリーの形式をとっていることのもうひとつの意義として、論理を駆使して謎を解決するという、本来あるべきミステリーのアンチテーゼとしての役割が挙げられる。そしてここで言う「論理」とは、たとえば遺伝子といった「絶対的」なものだと信じられているあらゆるものである。親子の関係というのは、遺伝子的なつながりがあることがすべてなのか――たしかにそれは、このうえなく強い「論理」であるし、誰にも否定できない絶対的なものではある。だが、だからといってその事実がすべての問題を解決するわけでもなければ、あらゆる人たちに幸福をもたらすわけでもない、という反論が、本書のなかにはある。論理的に謎を解決し、真犯人を暴きだして、はたしてそれでどうなるというのか、という思いは、こと本書にかんしてはこのうえなく重要なものだ。それは探偵として登場する人物はいるものの、彼が謎を解く役割をあたえられるわけではなく、むしろ泉水に情報を提供する程度のことでしかかかわっていない、ということからも見てとれる。

 意味を求めることはけっして無駄ではない。だが、意味を求めることにこだわりすぎると、本当に大切なことを見失ってしまう。著者の作品には、ときに信じられないような奇跡的な出来事が起こったりするのだが、そうした奇跡がけっして嘘臭くならないような、圧倒的な力強さがある。法律や多数決、秩序や倫理観といった、口先だけのこざかしい論理など軽々と跳び越えてしまうものを、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.12.19)

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