【東京創元社】
『パイド・パイパー』

ネビル・シュート著/池央耿訳 



 本書のタイトルである『パイド・パイパー』とは、「ハーメルンの笛吹き男(The Pied Piper of Hamelin)」から取られたものだという。これは、ネズミ退治の報酬を出し渋った村人たちに怒った笛吹き男が、笛の音で村の子どもたちをみんな連れ去ってしまうという、民間伝承をもとにした童話であるが、本書のなかで「笛吹き男」役をはたすことになるジョン・シドニー・ハワードは、べつに復讐といった悪意があって子どもたちを連れ去っていくわけではない。現役を引退した元弁護士で、今年で七十歳になる高齢のハワードが、なりゆきとはいえ、身内ではない子どもたちをつれて故郷のイギリスへと渡るという重荷を負うことになったのは、第二次世界大戦という未曽有の戦火ゆえのことである。

 ドイツ軍の進撃がますます激しさを増す1940年の夏、息子ジョンの戦死という悲報を受けてうちひしがれていたハワードは、その傷心を癒すために休暇をとり、フランスの片田舎へ釣りに出かけることにした。戦争の影はフランスをも飲み込もうとしていたが、スイス寄りのジュラ県あたりはまだまだのどかなもので、当初の目的をおおいにはたしたハワードだったが、英仏連合軍のダンケルク大撤退作戦が報じられ、戦局がより差し迫ったものとなるにいたり、彼は急ぎ帰国の決意をする。だが休暇先で知り合った、国際連盟に勤めるキャヴァナー夫妻から、自分たちの子どもであるロナルドとシーラをイギリスにいる親戚のところまで連れていってもらいないかと懇願される。ドイツ軍のフランス侵攻、英仏連合軍の敗退という事実を考えると、永世中立国のスイスも、国際連盟もこの先どうなるか予断を許さない状況だ。だが、自分たちは連盟と運命をともにする覚悟ができているものの、もうすぐ戦火に巻き込まれるかもしれない場所に子どもたちをとどまらせるのは忍びない。なんとかお願いできないだろうか、と。

 一日もあれば無事イギリスに帰れるだろうと踏んだハワードは、けっきょくその役を受け入れることになるのだが、なにせ旅のお供は小さな子どもだ。出発そうそうシーラは熱を出して寝込むし、ロナルドは戦車や装甲車といった乗り物に目がなく、ともすると相手がドイツ軍であっても平気で近づいていってしまう。意想外の出来事でまごまごしているうちに、ついにドイツ軍がパリを陥落したという知らせが飛び込み、汽車もまともに動かないような状況になってしまう。しかも、途中で世話になったメイドの姪であるローズや、両親を失ったばかりの孤児、立ち寄った村で虐待を受けていたオランダ人の子どもなど、なんだかんだで連れて行く子どもたちが次々と増えていく。自分ひとりでさえ厳しい状況のなか、何人もの子どもたちを抱え込むことになったハワードは、はたして無事にイギリスへと辿り着くことができるのか。

 ハワードの顔を薄笑いが過った。何のことはない。恐怖にうろたえた自分がおかしかった。恐怖は乗り越えなくてはならない。――(中略)――子供たちを引き受けた時には思ってもみなかった困難が待っているとしても、いったん負った責任は最後まで果たさなくてはならない。

 フランスからイギリスへと移動する――平時であればなんてことのない事柄が、じつに多大な困難をともなって登場人物たちのうえにのしかかって来る、という展開は、それだけにそれなりのリアリティを必要とするものであるが、戦争という外的要因もさることながら、ハワード自身の老齢や、連れて歩くことになる子どもたちの幼さといった内的要因が、そのあたりに大きく貢献していることは言うまでもない。子どもというのは好奇心の塊のようなもので、なかなかじっとしていられないものである。言うことを聞かせるのにも一苦労なのに、そのうえに自分の持ち物を置き忘れる、いつのまにか子猫を拾ってくる、乗り物酔いで気分が悪くなるなど、トラブルの種には事欠かないという状態だ。

 そしてそんな子どもたちを宥めすかして引率するハワードは、体のあちこちにガタがきている七十歳という老人である。以前は弁護士だったこともあり、それゆえに相手を説得するための弁舌や論理的思考についてはそれなりの能力をもっているのかもしれないが、子どもたちを統率するのにさほど役に立つとも思えないし、笛吹き男のように子どもたちを操る魔法の笛があるわけでもない。彼にあるのはちょっとした現金と、長い人生でつちかわれた忍耐と、ハシバミの枝で笛を作るというささやかな特技だけだ。そう、ハワードも子どもたちも、人間社会においては弱者として身を置かなければならない立場であり、だからこそ本書の旅の困難さが、よりいっそう際立つことになる。

「パイド・パイパー」というタイトルが、多分に「ハーメルンの笛吹き男」を連想させるものがあるとすると、ハワードの笛づくりという特技が、かろうじてそれを忍ばせるものとして挙げられるが、あえてもうひとつ取り上げるとすれば、それはハワードが、なぜ子どもたちを連れていこうと決意したのかという動機の点だ。本書のなかでハワードは、しばしば旅先で出会うフランス人たちに自身のかかえた事情を説明し、いろいろと便宜をはかってもらうことになるのだが、そのときの彼らの反応は一様に、「なぜそんなことを引き受けるのか理解できない」という態度である。これはフランス人にかぎらず、ドイツ軍のゲシュタポなども同様の反応を示すのだが、それは、彼らが大人特有の打算や計算といったものの見方でハワードをとらえようとしているからに他ならない。老人と何人もの子どもたち、という集団の奇異さ、その関連性がなかなか想像できないという意味では、ハワードたちは他の大人たちの目からは、それこそ「ハーメルンの笛吹き男」のような奇異さで見られていると言うことができる。

 だが、ハワードからすれば、「子どもたちを放ってはおけない」という理由だけで充分なのだ。それは最初から確固としたものとして彼の心にあったわけではない。戦争による旅の困難さ、戦争によって奪われた大切なもの、そして老齢ゆえに自分が何の役にも立てないことへのいらだち――のちにハワードと同行し、彼らの旅を手助けするという意味で重要な役割をはたすニコルの存在も加味したうえで、そういう弱き者たちの視点からとらえると、本書は戦争という最大の人災において、無力でしかない者たちが、それでもなお自身のなすべきことを見いだし、その責任をはたそうという一種の高貴な思いの実現をめざす物語、ということになる。それは、戦争という暴力がともすると置いてきぼりにしてしまう、まさしくハワードや子どもたちといった弱者の抵抗であり、またそれが、大きな悲劇のなかで生きていくための希望とも結びついていく。

 第二次世界大戦は国の違いによって、人々のあいだに大きな断絶を生み出すことになった。だが、ハワードが引き連れる子どもたちに、国籍など何の意味ももたない。イギリス人、フランス人、オランダ人、ユダヤ人にドイツ人――戦争という巨大な運命と対比して、あまりにちっぽけなハワードたちであるが、だからこそその集団のなかにはさまざまな象徴がうまれ、彼らの役割もこのうえなく重要なものとなっていく。はたして、現代のパイド・パイパーとなったハワードがもつ笛の音は、どのような音色を戦火のなかで響かせることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.12.11)

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