【新潮社】
『パリ左岸のピアノ工房』

T.E.カーハート著/村松潔訳 



 鍵盤を叩けば音が出るピアノという楽器が、打楽器ではなく弦楽器だと知ったときは、ずいぶんと驚いた記憶がある。おそらく、その頃の私のなかでピアノは木琴といったものと同じようなもの、という先入観があったのだろうが、ギターのように弦を弾くわけでも、またヴァイオリンのように弦を弓でこするわけでもなく、ハンマーで弦を叩くというアクションが、なぜあれほど均質な、しかし鍵盤を叩くタッチでいくらでも強弱をつけられる音を響かせることができるのか、と考えると、あらためてピアノという楽器の特殊さというか、その不思議な構造に思いをめぐらせずにはいられない。

 不思議といえば、楽器メーカー、とくにピアノの製造元として有名なヤマハが、同時にオートバイのメーカーでもあると知ったときも驚いたものだが(もとは同じ会社だったが、二輪部門が独立して「ヤマハ発動機」となる)、楽器とオートバイという、一見すると何の共通点もなさそうなふたつの要素のなかに、あるいは私たちの知らないつながりがあるのかもしれない。もしあるとすれば、その共通点は何なのか。かつてオートバイにも乗っていたし、ピアノのレッスンを受けたこともある私としては、なんとも気になる命題ではあったが、今回紹介する本書『パリ左岸のピアノ工房』を読んだときに、なんとなくその共通点が見えてきたように思えた。

 十九世紀におけるピアノの発達の歴史は、産業革命の歴史に重なっている。ピアノの性能の向上や数々の改良は、それを可能にした機械時代の技術革新と切り離せない。――(中略)――十九世紀末には機械部分と工業技術の粋を集めた巨大な構造物になっていた。

 本書は現在パリに住んでいるアメリカ人の著者と、その近所にあるピアノ工房の職人リュックとの交流を描いたものであるが、彼らの出会いからして、いかにもフランスの職人気質を思わせるエピソードをはらんだものだ。まだ子どもが幼稚園に通っていた頃、その通り道にあった<デフォルジュ・ピアノ>――著者自身、昔からピアノが好きだったこともあって、その区画にはなんとも場違いなように見える、その謎めいた工房の存在は、徐々に著者の心を占めるようになる。そんなある日、中古のピアノが手に入らないかと一大決心をしてその工房を訪れてみたが、そのたびに売り物になるようなピアノは入っていないと言われてしまう。

 それがいちげんさんお断りのポーズであり、知り合いの紹介が必要であることを教えてくれたのがリュックであり、後に店の後継者として正式に<デフォルジュ・ピアノ>を引き継ぐことになった彼に気に入られた著者は、ようやく奥の工房に通されることになるのだが、こうした紆余曲折を経て、これまで隠されていた独自の世界に入り込んでいくという一種の手続きは、それこそ宝箱のふたを開けるかのような、ちょっとした興奮をかきたててくれる。著者自身が語るように、読者もまた「じつに贅沢な夢の世界に――警戒心をいだく暇もなく――すでにどっぷりと漬かって」しまっているのである。

 著者がふだん生活している世界が日常であるとするなら、リュックがいるアトリエが著者にとっての「非日常」として機能していると考えるのは、けっして難しいことではない。じっさい、リュックの口を通して語られる数々のピアノ、それこそ古い名器や珍しいタイプのピアノにかんする表現は、ときにその場の雰囲気もふくめて、どこか幻想的なイメージを読者にいだかせる。だが、本書は小説ではなくノンフィクションであり、こうしたフランスのピアノ工房は現実のものとしてこの世界に存在しているのだ。そして、その世界の扉を開ける鍵となるのは、ピアノを心から愛している、という一点につきる。

 ローズウッドの合板を張り合わせた華麗なスタインウェイ、レモンウッド製のケースが黄金色に輝くガヴォー、ハープシコード風の繊細なケースが美しい六本足のプレイエル・グランド、ベートーヴェン時代のものと思われる老朽船のようなゴッティングなど、本書にはさまざまなタイプの珍しいピアノが登場し、それにともなってピアノの構造やその発展の歴史、それがどのような音色を奏でるかといったことにも触れていく。そういう意味で、本書はこれまで表面的なことしか知らなかったピアノのもつ奥深い世界を紹介する作品でもあるが、定期的にアトリエに訪れるようになった著者に対して、まるで子どもがはしゃぐみたいに手に入れたピアノのことを語るリュックの様子が何より微笑ましい。それは、彼が職人であり、また商売人でもある以前に、ひとりのピアノ好きだからこそ示すピアノへの愛着ゆえのものであり、まさに趣味と実益を兼ねた仕事の理想の形がそこにあると言える。

 人々のピアノの扱い方に対するリュックの態度は、彼の人生哲学を反映しているようだった。子供たちが鍵盤や弦に傷をつけてしまったのは残念だが――(中略)――それは子供たちにピアノの楽しさを教えるための代価なのだ。ピアノは恭しく扱うのではなく、気軽に親しんでこそ楽しさがわかるのだから、と彼は言うのだった。

 たとえ同じメーカーの同時代の製品でも、それが前の持ち主にどのように使われてきたかによって、一台一台のピアノに個性が生まれてくると言い、たんに虚栄心を誇示するためだけに高価で貴重なピアノを買い取る人には軽蔑をしめすリュックにとって、ピアノとは楽器であり、だからこそ好きだというあたりまえの認識がある。そしてそれに呼応するようにして、著者がリュックのアトリエからベビー・グランドのシュティングルを購入するといういきさつをきっかけに、自身の音楽的エピソードへと話題は広がっていく。とくに350キロ近くもあるシュティングルを事実上ひとりの男が肩に担いで著者の部屋まで運び入れる、という驚きのエピソードをはじめ、もう一度ピアノを習いなおしてみたいという著者の欲求から、じっさいにそれにふさわしい教師を探し出してレッスンをはじめたり、また著者の住む界隈の、音楽好きな隣人たちのエピソードや、フリーライターとしての一面を発揮するピアノメーカーへの取材など、ピアノ本体のことだけでなく、ピアノの演奏やその楽しみ方にも事欠かない内容である。

 誰かに自分の奏でるピアノを聞かせるのではなく、あくまで自分が音楽を楽しむためにピアノを習う著者の、できればひとりのときにピアノを弾きたいという思いは、じつのところリュックのピアノに対する愛着と根のところで共通するものである。自尊心や虚栄心の入り込む余地のない、純粋に何かが好きだという気持ちがふたりを、そしてリュックのアトリエに訪れる人たちとを結びつけているし、だからこそ私たち読者も、そんな彼らの交流に自然と好意的なまなざしを向けることができる。

 はたして、この書評をお読みの皆様は、ピアノに対してどのようなイメージをお持ちだろうか。結果として、私はピアノもオートバイも長続きしなかった人間であるが、バイクもピアノも複雑な機構をもつ製品であり、それゆえにそれぞれ使い手によって微妙なクセがついていく、という点で両者はたしかに似ているし、だからこそかつては同じメーカーで取り扱うこともできたと言える。未知のピアノとの出会い――蓋を開けて鍵盤に指を乗せるときの興奮と、奏でられる音色への期待は、ピアノについて興味のない方であっても、きっと何かしら共感するものがあるに違いない。まるで時代に逆行するかのような、きわめて専門的で秘められた職人の世界を、ぜひとも楽しんでもらいたい。(2008.07.16)

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