【白水社】
『イタリア広場』

アントニオ・タブッキ著/村松真理子訳 



 あたり前のことではあるが、私たちは「今」という時間を生きている。もちろん、未来に起こりうるであろうことをあらかじめ予測し、それに備えて何らかの計画を立てたり、ある程度のスケジュールを作成したりして、それにのっとって来たるべき未来へ向かって進んでいくということを私たちは日頃から行なってはいるが、そうした行為もふくめて、私たちは「今」という時間を、あくまで個人の「日常」の延長線上にあるものとみなして生きている。たとえその時、何か歴史的瞬間に立ち会っていたとしても、それがまさに「歴史的瞬間」であると認識するのは難しい。そうした認識はえてして、それが過ぎ去ってしばらく経ってから、はじめてそれと気づかされるものであったりする。

 歴史とは、常に現在から過去に目を向けることで成立する。つまり過去はすでに定まったものであるからこそ「歴史」となるのであって、それが現在進行形である場合、評価することはもちろんのこと、その全容をとらえることすら困難になる。定まってもいない流動的な事柄について、「今」を生きる人たちにできるのは、せいぜい推測するくらいのことでしかない。いや、それができるような立場にあればまだいいほうで、まさにその当事者たちにとっては、あるいはとにかく生きること、生き延びることが最優先となっている場合も少なくない。

 おのおのの主観のなかに囚われている、ちっぽけな人間たる私たちは、ともすると毎日のように繰り返される日常に生活全般を引きずられがちであるし、ある種その安寧こそが個人にとっての現実だと言えなくもない。だが、その現実の日常の積み重ねが、いつしかその人の「歴史」の一部となっていくことを私はよく知っている。そしてそれは、おそらく歴史全般についても同じようなことが言えるはずである。本書『イタリア広場』は、ある一族の三代にわたる歴史を書いた作品であるが、その歴史を彼らがどれだけ意識していたのだろうか、ということをふと考えてしまう。そして彼らのとった言動が、イタリアという国の歴史とどのようなかかわりをもつことになるのか、という点についても。

 それに、だいたい、ガリバルドの一家にとって、時間はいつも、ある特別な流れ方をしてきたのだ。

 物語の最後を飾るべき「エピローグ」がいきなり冒頭で語られ、しかもそのなかで本書の中心人物であるガリバルドが、額に銃弾を撃ち込まれて死亡するというショッキングな展開を見せる本書は、たしかに上述の引用にもあるとおり、特別な時間の流れを予感させる。そのひとつが時系列の問題であるが、冒頭のエピソードを除いて、基本的には時間は過去から未来へと流れているものの、全体を構成する個々のエピソードがそれぞれ非常に短く、まるでひとつの壮大な時間の流れをこまぎれにしたかのような印象をかもし出している。しかもこまぎれにされたエピソードは、単純に時系列に並んでいるというわけでもなく、その流れるスピードも一様ではない。ときには一気に何十年も時間が跳ぶこともあり、しかもそのときは決まって、登場人物がどのような死を迎えることになったのかを説明するためだったりする。そしてこの「死」という、ある意味で時間から解放される現象が、一族にとってもうひとつの「特別な流れ」を形成する要素となっている。

 それは、女占い師ゼルミーラによって予見された、ガリバルドの男たちが決まって三十年で死を迎える、というものである。そしてこの予見は、当然のことながら本書の冒頭で語られた「エピソード」における、ガリバルドの死と重なることになる。

 本書を読み進めていくとわかってくることであるが、ガリバルドの一族は、その人生において戦争や争いにあえて身を置いたりすることが多い運命を負っている。たとえばガリバルドの祖父にあたるプリニオは、「二つの世界の英雄」たるガリバルディの軍隊に参加し、砲弾の破片が原因で右足首を失うことになった。その四人の息子のひとりクワルトは戦争に徴兵され、故郷を離れた戦地でその命を散らすことになる。末っ子のガリバルドは国の徴兵に対して、自分の右足の小指を銃で吹き飛ばすことで免れたものの、後に民衆の暴動を率いるという形で国家と対立するという道を選んでしまうし、彼の死後にその名前をもらった息子ガリバルドは、ファシストとしてナチス党に入党した従兄弟のメルキオーレと敵対することになる。

 本書に登場する一族の男たちは、ただの「村」と呼ばれる故郷を離れ、そこで学問を修めたり、兵士として戦ったりしている。なかには、クワルトの双子の弟であるヴォルトゥルノのように、兵役から逃亡してそのまま行方がわからなくなる者も出てくるが、そのいっぽうで、一族の女たちは故郷の村に残って家を守る者が圧倒的だ。極端なものになると、修道女となって修道院でその生涯を終えるような者すら出てくるのだが、おそらくそうした家族の姿は、ガリバルドという一族特有のものというよりは、むしろ当時の家族がある程度共有していた生き方だと思われる。そういう意味では、この物語はある「歴史」のなかで生きた、あくまでひとりの人間としての主観から語られたものだということになる。そしてそれが、本書の大きな特長のひとつにもなっている。

 あくまで個人の人生のある瞬間を切り出して、それを並べていくような構造をもつ本書には、歴史を俯瞰するような視点が意図的に排除されているところがある。つまり、プリニオが戦ったガリバルディの戦いが、イタリアの歴史においてどのような位置づけにあるのか、あるいはクワルトたちが徴兵された戦争はどの戦争のことを指しているのか、といった説明がいっさい省かれているのだ。むろん、「ファシスト」や「ナチス」といった単語は出てくるので、そこから彼らの生きた時代をある程度は類推することはできるが、まさにその渦中にいる者たちにとって、そうした認識が生き延びるという喫緊の問題を解決するわけでないことは、この書評の枕でも繰り返したとおりである。

 たとえば、「今」を生きる私たちは、ナチスという「過去」について、その罪をよく知る立場にある。だが、クラウス・コルドンの『ベルリン1933』のように、当時のドイツにおいてナチス党が民衆の貧困を改善することを期待して入党し、家族のなかで決定的な分裂が生じてしまうというのが、その時代の「日常」であった。メルキオーレがファシストになったのも、きわめて個人的な理由によるものであって、ナチスがどのような組織であるかを完全に理解していたわけではない。それは、愚かなことだろうか。たしかに愚かなことかもしれない。だが、他ならぬ自分自身が、彼らのように愚かでないと誰が判断できるだろう。それができるのは、未来の人たちだけだというのに。

 ゼルミーラによる予見はもちろんのこと、洞窟の奥に引きこもってしまった司祭の話や、村の家にある窓という窓が飛んでいってしまったという話、あるいはガリバルドの妻の両指に灯る炎など、どこかファンタジーめいた逸話が入り混じる彼らの人生は、そのひとつひとつはたしかに断片的なものでしかないのだが、それらが無数に積み上げられた結果として見えてくるものが、たしかにある。そしてそれは、本書のタイトルにもなっている「イタリア広場」――ときには前にあった銅像が引き倒され、別の人物の銅像が建てられたり、あるいは民衆の暴動が発生したりする、歴史の一幕を象徴する広場へとつながっている。

 ある一族を翻弄する運命が、そのままイタリアという国の歴史を浮かびあがらせるかのような物語――はたしてあなたは、この再構築されたイタリアの歴史に、どのような思いを抱くことになるのだろうか。(2013.10.18)

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