【草思社】
『石、紙、鋏』

アンリ・トロワイヤ著/小笠原豊樹訳 



 人と人との関係というと、たいていは一対一の関係を思い起こす。たとえば、恋人同士の関係はまぎれもなく一対一だし、配偶者の関係になれるのも一対一である。自分自身と、もうひとりの人間のふたりで完結する関係性は、非常にシンプルで力強さを感じる。逆に、四人以上のグループになると、個人とのあいだにいくつもの線を引くことができ、それだけ多くの意見が生まれ、さらに発展していく可能性があるし、あるいはそこからいくつかの小さなグループに分裂する可能性もある。だが、こと三人による関係性は、どこか不安定な要素をはらんでいると思うのは、はたして私だけだろうか。

 私の個人的オールタイムベスト作品として君臨する、雨森零の『首飾り』は、秋とななとれいの三人の子どもによってつむがれる物語であるが、「手を叩くのに三つでは多すぎる」とあるように、彼らの関係性は常にどこかで崩壊の危険性をはらんだものであった。三人という関係は、何らかの対立が生じるとかならず誰かがひとりぼっちになってしまう関係でもある。それまでふたりで完結していた恋愛関係に、もうひとりが入ってくることで生じる「三角関係」も、最終的には二対一に分かれるか、あるいは三人が三人とも別になってしまうのが常だ。お笑い芸人のトリオや三人組でデビューするスターを見ていてもわかることだが、三という数字は、こと人間の関係性でいえば非常に座り心地の悪いものがあり、けっして長続きしない運命を背負っている。

 本書『石、紙、鋏』というタイトルを見て、おそらく大抵の方は「じゃんけん」を思い出すのではないだろうか。石は鋏より強いが紙には弱く、鋏は紙には勝つが石には負ける、紙は石より強いが鋏には弱い――このゲームは面白いところは、三種類のシンボルが、かならず一方には強く、もう一方には弱い、というつながりによって、三という数字でありながらけっして崩れることのない、三すくみという強固な関係性を確立している、という点である。だが、本書に登場する三人――アンドレ、オレリオ、そしてサビーヌはシンボルではなく、人間である。そしてそれぞれの関係性は、けっして不変なものではなく、時と場合によって容易に逆転したり、関係性が切れたと思ったらまたつながったり、というふうに、常に変化していくものでもある。本書は言うなれば、この三人が関係をもったことで生じた、けっして安定することのない三角関係とも言うべきものの末路を描いた作品である。

 しがない無名の画家であるアンドレは、何かと不愉快で不条理な現実よりも、ささやなではあるが快い夢のなかで生きることを好むような男である。絵を描くことにしても、金儲けや名声のためというよりも、自分の夢のなかにある美しいものを形にしようと試みる、という一面が強く、友情とか理想とかいった精神的な側面を何より大切にしようとするいっぽう、世の中をうまく渡り歩いていくことにはてんで無関心であり、それゆえにいろいろな人にうまく利用されたり、その場の感情だけで捨て猫や捨て犬、また行くあてのない異国の少年をあずかってしまったりする。本書の冒頭においても、心臓発作で倒れた友人のジェラール・ルウーの代役として、建物の基礎工事の監督などという、およそ畑違いであるはずの仕事を引き受けてしまい、その現場に向かうところからはじまるのだが、そんな、良く言えば底抜けにやさしい、悪く言えばお人よしで世間知らずなアンドレの心の平穏は、その道の途中で偶然出会ったひとりの青年によって、大きくかき乱されることになる。

 はじめて会う人に対しても妙に馴れ馴れしく、しかもそんな不遜な態度がなぜか不快になることのない、まるでどんな場所にいても、さながら自分の家にいるかのように順応し、どんな人と接しても、旧知の間柄であるかのように思わせてしまう人なつっこさをもつ青年――後にアンドレ自身がオレリオと呼ぶ、この自由奔放で屈託のない青年に、アンドレはすっかり魅せられてしまう。物語は、アンドレとこの青年との出会いから、その後オレリオがアンドレの家に押しかけ、そのままなし崩しに居つくようになり、アンドレとも、そして彼の女友達であるサビーヌとも関係をもつようになる第一部と、オレリオとサビーヌとのあいだに子どもが生まれたことをきっかけにして、アンドレとオレリオ、サビーヌが同じ屋根の下で不思議な共同生活を営むようになってから、お互いのあいだに感情のすれ違いが生じるようになり、最後にはオレリオもサビーヌもアンドレのもとから離れてしまう第二部の、大きくふたつに分けることができるのだが、よくよく本書を読み込んでいくと、この三人のうち、心情的にも大きな起伏のあったのは、じつはアンドレとサビーヌだけであって、オレリオ自身は最初から最後まで、現世の利益や肉体的な快楽に忠実で、誰にも、どんな決まりごとにも縛られることなく、あくまで自分勝手に生きていくことに徹していたことがわかってくる。生に奔放という点では、サビーヌにも似たところはあるものの、彼女があくまで異性とのロマンス、性交渉において奔放である、という制限があるのに対して、オレリオの場合は、何より自分が生きていくということに貪欲なところがあり、しかも自分のもつ魅力について充分自覚しており、その魅力を惜しげもなく使っていく、という点で一枚も二枚も上手である。そんなオレリオの性質は、自分が自由に生きていくためであれば男とでも女とでも寝ることを厭わない両刀遣いであるという点において、もっとも顕著だろう。そして、アンドレは異性ではなく同性にしか欲情を感じない同性愛者である。

 同性愛者に両刀遣い、そして普通に異性を愛することができる女――この三つの要素において、もっとも現実的でないものは、同性愛者のアンドレである。本書の特長は、そんな性質の異なる三人、それも、愛情の性質も方向性も複雑に入り組んだものとなっている三人の関係が、物語が進むにつれてどのように変化していくのか、その波乱に満ちた展開にこそあるわけだが、同性愛というものは、結婚のためとか社会的安定のためとかいった、いかにも現世的な打算からはずれたところにあるがゆえに、より純粋に愛というものを追求していかざるをえない部分がある。そしてそれは、アンドレという人物のひとつのステータスともなっている。

「物質的じゃない欲望なんて、あるか?」
「精神の喜び。大切なのは、それだよ」
「腹ぺこで、頭に虱が湧いていたら、そんな精神の喜びなんてものは、パンひとかけらと石鹸の切れっ端に到底勝てないだろうな」

 現実を自身の才覚を使って貪欲に渡り歩いていくオレリオの性格は、アンドレの性格とは対極に位置するものだ。サビーヌにもオレリオと似たようなところがあることを考えると、アンドレは自身の現実的ではない性格とは正反対のオレリオやサビーヌの生き方が、まぶしいくらい輝いて見えていたとしてもおかしくはない。自分にないものをもつ相手に惚れる、というのは恋愛感情のはじまりとしてはよくあるパターンだが、同性愛という要素が、どうしようもなくアンドレをオレリオへと引き寄せてしまう。いっぽうのサビーヌは、似たものどうしであるオレリオとは、ときに強く惹かれることもれば、似たものどうしであるがゆえに強く反発することもある、というきわめて不安定なものでしかない。そしてオレリオはといえば、そのときそのときの感情において嘘をつくことはないが、あくまで現実的なものの見方をする彼にとって、感情とは曖昧で常に移り変わっていくものである、という現実が前提としてあり、およそ約束事といった束縛に耐えられない。

 前述したが、三人という組み合わせは、じゃんけんの三すくみ状態を維持できないかぎり、けっして長続きすることのないものである。そういう意味で、本書における三人の関係性は、その当初から崩壊する運命にあったものと言えるが、それでもなお三人の関係性が永遠につづいてほしいと願ったアンドレの儚い夢は、だからこそ美しいものであったのかもしれない。たとえ、その結果として残った現実が、どれだけ残酷なものであったとしても。(2005.10.12)

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