【文藝春秋】
『ペルソナ 三島由紀夫伝』

猪瀬直樹著 



 一冊の写真集がある。
 美術出版社が1995年11月に刊行した『三島由紀夫の家』というタイトルである。写真撮影を担当したのは、篠山紀信。当時、とある書店の平台にこの写真集が置かれているのを見たとき、「三島由紀夫」という文字と、表紙に映っている、よく「白亜の館」と称される彼の邸宅の一部の写真との関連性に、ふと足を止めて手にとってみる気になったのをよく覚えている。

 三島由紀夫という名の小説家については、私もその名前くらいは知っていた。彼が市ヶ谷駐屯地で衝撃的な割腹自殺をとげた、という事実はあまりにも有名であるし、けっして熱心な読者ではなかったが、学生の頃は何作かその作品を読んだこともある。新潮社から全36巻にもなる全集が出ていることからも、そうとうに多作な作家であったのだろうことはわかっている。だが、逆にいえば、私にわかっているのはその程度のことであり、それは他の大勢の作家のひとり、というとらえかたとなんら違わないものでもあった。だいいち、三島由紀夫が割腹自殺をとげたとき、私はまだこの世に生まれてさえもいなかったのだ。

 三島由紀夫自身の写真集も刊行されている。新潮社から出ている『写真集 三島由紀夫 ’25〜’70』というのがそれで、写真集といっても、三島由紀夫が生きた45年をさまざまな写真とともに追う、というコンセプトのものであるが、こうしたものをあらためて見ていると、彼が非常に写真の被写体として意識してポーズをとっているのがよくわかる。

 割腹自殺、という異常でセンセーショナルな死をとげた事実があるにしても、ひとりの作家が死後、残してきた作品だけでなく、自身の姿や、その住んでいた家までが写真集となって刊行されていくという事実を考えたとき、この三島由紀夫という男がいったい何者なのか、なぜその生き様がここまで注目されるのか、疑問に思う人がいたとしても、不思議ではないと思う。

 本書『ペルソナ 三島由紀夫伝』は、そのタイトルにあるように、作家三島由紀夫の評伝であるが、この全四章にわたる本書のうち、三島由紀夫本人について書かれているのは第二章以降のことであり、第一章は「原敬暗殺の謎」とあるように、大正時代の宰相だった原敬と、その腹心である平岡定太郎、つまり三島由紀夫の祖父の官僚時代のことが中心になっている。

 ちゃんとした理由がある。本書「プロローグ」において、著者は“大蔵のドン”と呼ばれる長岡實へのインタビューのことを書いているが、著者はそのことによって、かつて大蔵省に勤めながら、わずか九ヶ月でそこを辞めてしまった三島由紀夫の姿を浮き上がらせようと意図しているのだ。長岡實と三島由紀夫――いっけん、まったく結びつきそうにないこの両者の家庭環境が、じつは代々の官僚の家系ということで似通っていること(ふたりは大蔵省の同期入省である)、にもかかわらず、両者の歩んだ人生がまったく異なったものとなってしまったことにこそ、著者の焦点があることを、この「プロローグ」は示している。

 著者の猪瀬直樹は今でこそテレビでもおなじみで、また政治家としても注目されつつある方だが、基本的にはノンフィクション作家である。数多くの取材や膨大な資料から小さな事実を探り、独自の真実をたどっていくのがノンフィクション作家の仕事であるとすれば、著者がたんに三島由紀夫の著作だけでなく、その出自や周囲の環境などといった多くの要素を検討したうえで、その評伝を書こうと思い立ったとしても不思議ではない。そして、著者はたしかに「小さな事実」を発見した。三島由紀夫がかつて官僚であったという事実である。

 そういう意味では、本書は三島由紀夫の評伝である以前に、日本の官僚機構の歴史とその実際を描いたドキュメントである、という見方もできると思う。逆にそう考えれば、著者がなぜ『仮面の告白』の、たった一箇所しかない祖父定太郎に関する記述の真実に、異様なまでのこだわりを持つようになったのか、ということの説明もつく。だが、では本書が三島由紀夫の評伝としては未熟なのかと言えば、けっしてそんなことはないと断言する。ドキュメンタリー風に描かれる三島由紀夫の姿は、確固とした事実にもとづく非常にリアリティのあるものであるし、作品論、とくに、『仮面の告白』から『金閣寺』、そして「豊饒の海」四部作へといたる作品群に対する一貫したとらえかたについても、なかなかに鋭いところを突いている。だが、本書でもっとも精彩を放っているのは、やはり第一章の「原敬暗殺の謎」を見事に解明してみせた部分であることは否めない。

 本書の中にはよく、三島由紀夫は意志の人、という表現が出てくる。それは、自分の人生に対してどこか意識的に何かを演じよう、とする部分のことだ。じっさい、本書を読んでいくと、若き天才作家として文壇デビューを飾ろうとなりふりかまわず奮闘する三島由紀夫の姿がある。太宰治が心中未遂事件をおこしてその著作の売り上げを伸ばせばそのことを羨ましく思い、なんとか自分の作品を出版させるためなら祖父のコネを使うことも辞さないその姿は、あるいは卑屈で矮小にさえ映るかもしれないが、それは逆にいえば、小説の素材のためなら自身のスキャンダルさえ利用して生きていく、「小説家」と呼ばれる人たちの持つ熱意の典型的な例だとも言える。そしてその異様な情熱は、そのまま本書の著者にもあてはめることができる。本書あとがきにもあるように、本書はこれまでの評伝で中心だった、祖母夏子の家系に重点を置いたものではなく、あくまで官僚の家系だった父方の家系に注目した評伝であり、その見方はたしかにセンセーショナルなものであるからだ。

 僕は不思議でたまらないのだが、天皇制と呼ばれるものが、日本人にとってそれぞれみな異なる概念であるらしいことだ。――(中略)――つまり未だに定まっておらず、あるいは定まらないかのごとくあるメタファーこそが日本人の天皇観なのだろう。三島は、独自の内なる天皇観を創りつつあった。

 三島由紀夫に関する評伝は、数多い。それだけ注目されることの多い作家だということであるが、たとえば「豊饒の海」四部作のとらえかたひとつをとってみても、本書と『かくも永き片恋の物語』とはまったく異なった解釈がなされている。「日本人の天皇観」と同じように、それぞれの三島由紀夫観があり、その作品への解釈がある。自身をとらえようとする人々に対して、それぞれ違った仮面をかぶり、けっしてひとつのところに定まることのない作家三島由紀夫――もしかしたら本書のタイトルに冠された「ペルソナ」とは、このことを指しているのではないだろうか。(2004.07.10)

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