【早川書房】
『順列都市』

グレッグ・イーガン著/山岸真訳 



 私たちの住むこの世界のあらゆる事象は有限のもの――かならずどこかに始まりと終わりがあるものであって、その因果の法則から逃れられるものなど何ひとつ存在しない。それは言い換えれば、人はいつかかならず死を迎えるということであり、だからこそ人は死を怖れ、しばしば「不老不死」という幻想に惑わされたりする。自分という個が、けっして消滅しない存在になる、ということ――たとえば、ジェイムズ・L・ハルペリンの『誰も死なない世界』では、人類がテクノロジーによって「不死」を手に入れた世界が書かれた作品であるが、そこに書かれていたのは、人類だけが無限を手にいれ、それ以外のあらゆるものが、相変わらず有限であるがゆえの問題に悩む人たちの姿であった。

 自分たちだけが無限であっても、世界が有限のままであるなら、それははたして真の「不老不死」と言えるのか。有限の存在のときには問題にすらならなかった地球の寿命や太陽の寿命、さらには宇宙そのものの寿命が、無限の存在となったときには大きな問題となってくるというのは、まさに自然から切り離されて生きることを運命づけられた人間だからこその皮肉というほかにないのだが、本書『順列都市』は、人間をふくむあらゆる事象の「不死」という、壮大なテーマに挑戦した作品である。

「――ちょうど……一般相対性理論における重力と加速の関係と同じだ――(中略)――これは新しい等価原理、新しい観察者間の対称性だ。相対性は絶対空間と絶対時間を追放したが――それではじゅうぶんではなかった。わたしたちは絶対因果関係を追放すべきなんだ!」

 本書の舞台となっている21世紀半ばでは、記憶や人格をふくむひとりの人間を定義する全情報をスキャンし、コンピュータの仮想空間にダウンロードする技術が確立されている。この技術によって、肉体をもつオリジナルが死を迎えても、その「コピー」たる人格は仮想空間で生き続けることが可能になり、じっさいに何人かの超富豪たちは、肉体の死後も仮想空間から現実世界に対して大きな影響力をもつような存在と化している。しかしながら、この「不死」はあくまでコンピュータの処理能力に依存している不完全なもので、富豪たちが潤沢な資金で自前のハードウェアと膨大な処理能力で現実世界とのリンクを保っているいっぽう、資金のない「コピー」たちには割り当てられる処理能力が大幅に制限され、現実世界との接点もほとんどあたえられないという格差が生じているのが現状となっている。

 いずれ未来において科学技術のブレイクスルーが生じ、全「コピー」を走らせるだけの処理能力をもつコンピュータが開発されるか、あるいは人間の肉体とほとんど変わらないボディが開発されてそこに転移できるまでの、あくまで仮の避難場所――現在における諸問題を遠い未来が解決することを期待する、という意味で、本書の人格「コピー」技術は、肉体を冷凍保存して時間を跳躍するエンバーミング技術とさほど変わりない代物として扱われている、という前提が、本書のなかにはある。つまり、人類が「不死」を手に入れたと宣言するには、まだまだ程遠い状態――そうした前提をふまえたうえで本書を読み進めていくと、その世界観をより理解しやすくなる。

 人類が真の意味での「不死」を手にするためには、どのような方法があるか――というよりも、何をもって真の「不死」と定義するのか、というのが本書前半のテーマであり、登場人物のひとりであるポール・ダラムは、ふと気がつくと自分が仮想空間に閉じ込められた「コピー」であり、否応なく自分がオリジナルの自分によって実験の被験体とされていることに気づくことになる。実験の目的は、仮想空間を形成するハードウェアの設定をさまざまに変更することで、「コピー」の意識にどのような影響が生じるかというものであるが、その実験の過程において「コピー」のダラムが到達したある洞察が、真の「不死」というアイディアとなって他の登場人物の物語へとつながっていく。オートヴァース――単純化された物理法則にしたがうコンピュータ・モデルのなかで、自分の作った人工生命に突然変異を起こさせることに成功したマリア・デルカに対して、オートヴァース内に高度な知性をもつにいたる原始有機体と、それが育成されるにたる惑星環境をまるまるデザインしてほしいと依頼するいっぽう、仮想空間内に「コピー」として復活した大富豪トマス・リーマンに、電脳ゆえのさまざまな不安材料から完全に解き放たれた、真の永遠を手に入れたくはないかと交渉し、その情報の断片が劣悪な処理能力で生きる「コピー」のひとりであるピーの耳に入ってくる、といった具合に。

 コンピュータの処理能力とハードウェアに依存する不完全な「電脳不死」ではなく、完全な「不死」――たとえ宇宙そのものが崩壊しても、なお存在し続けることができる世界である「順列都市」とは、はたしてどのようなものなのか? そのあたりのアクロバティックな論法については、読者自身がたしかめてほしいところであるが、正直なところ、人間の個を定義する認識論的なところに踏み込んでいるところもあり、私も完全に理解がおよんでいるとは言いがたい。とはいえ、人工生命で有名なセル・オートマトンを多次元構成に展開し、文字どおり無限に増殖していくオートヴァース世界のイメージや、電脳世界に「コピー」として生きる人たちの生態やものの考え方、はては人類ともうひとつの知的生命体とのファーストコンタクトなど、そのラストもふくめていかにもSF的要素を満載した本書は、それだけでも読み応えのある作品だと言うことができる。

 とくに、「コピー」として電脳世界で生きることについて、本書では深く切り込んで書かれているが、それは同時に何をもって自分を自分として認識するかの問題とも直結する。ここが仮想世界であり、その上位世界としての現実世界があることを知りながら生きるということ、自分の性格や感情といったものが自由に変えられたり、容易にいくつもの「コピー」を生み出すことができる世界において、人間の価値観がどのような変化を遂げていくのかという問題は、突きつめていくと最後には自分の生きる現実世界そのものへの疑惑へとつながっていくという点で興味深いものがある。「コピー」として生きるピーやトマスはもちろん、「順列都市」のアイディアを編み出したダラム――自分を「コピー」として仮想世界での被験者とした彼でさえ、自分がまぎれもない自分自身であることの因果を求めて苦悩しているところがあった。オリジナルの自分と「コピー」としての自分、その違いはどこに生じ、どこまでが共有可能なのか、と。そしてその因果――絶対因果関係を突き抜けたところにこそ、「順列都市」のモチーフがある。

 けっして滅びることのない世界で、けっして死ぬことのない生を生きる――それも、まったく変化のない世界ではなく、エイリアンとの遭遇の可能性さえある世界を生きるという、ある意味で究極の「不死」の可能性に挑戦した本書は、はたしてあなたにどのような認識のブレイクスルーを引き起こすことになるのだろうか。(2011.12.26)

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