【ランダムハウス講談社】
『古書の来歴』

ジェラルディン・ブルックス著/森嶋マリ訳 



 本は基本的に誰かに読まれるために存在するものであり、そうである以上、できれば綺麗な状態に保たれているものを読みたいものであるが、たとえば図書館から借りてくる本については、それが大勢の人の手を介するものであるがゆえに、なかなかそういうわけにはいかなかったりする。もちろん、ページが切り取られていたり破かれているようなものは論外であるが、手垢や染みでページが汚れていたり、余白に書き込みがされていたり、髪の毛や何かの食べ物の屑が挟まっていたりというようなことは、図書館の本を借りるさいには必ずついてまわる宿命のようなものだ。

 そうしたものは、大抵はせっかくの読書意欲を殺ぐものでしかなく、迷惑な存在でしかないのだが、なかには非常に興味深いものが挟まっていて、別の意味で読書どころではなくなるときもある。以前、なじみの図書館で借りた本のなかに、意味深な言葉や数字を書き連ねたお手製の栞が挟まっているのを見つけたときには、その栞のことばが意味するものについて、いろいろと考えをめぐらせずにはいられなかった記憶がある。はたしてこの言葉や数字は何を意味していて、以前本を借りた人は、どういう思いでそんな栞を挟みこむことにしたのか? それらはときに、本そのものが有するものとは、また違った形の物語を借り手に想起することもある。

 本のなかに書かれているのは、情報である。誰かに何かを伝えるために、あるいは何かを記録しておくために、綴った言葉をひとまとめしたもの――だが、本を情報の記録媒体のひとつとしてではなく、純粋にひとつの物体としてとらえたときに、その紙の材料や装丁、それこそページに付着した染みひとつ、挟まった髪の毛一本ですら、その本にまつわる貴重な情報源となることがある。とくに、その本が何百年も前につくられた古書であれば、なおさらのことだ。

「古書に手をくわえて、作られたときの状態にまで戻すのは、その本の歴史を尊重していないと思うの。先人から引き継いだときの状態を受け入れるべきだと私は考えている。その古書の歴史の証でもある許容範囲内の損傷や、磨耗を受け入れるべきだと。」

 本書『古書の来歴』は、ある一冊の本がたどった数奇で壮大な遍歴を物語る作品である。ヘブライ語で記されているその本は「ハガダー」と呼ばれている種類の本で、もともとはユダヤ教の「過越しの祭り」で使われる、あくまで家庭用の写本であり、ユダヤ教の祈りや詩篇が書かれているものであるのだが、オーストラリア在中の古書鑑定家ハンナのもとに修復依頼が出された本は、ハガダーのなかでも現存する最古のものと言われる「サラエボ・ハガダー」であり、一九九二年のサラエボ包囲戦によって紛失したとされている、いわくつきの古書だった。

 十五世紀ごろのスペインでつくられたとされる「サラエボ・ハガダー」は、偶像崇拝を何よりも嫌うユダヤ教の写本でありながら、美しく彩色された挿絵がふんだんに使われており、中世のユダヤ教徒における宗教美術史を大きく覆すという意味で、歴史的にも貴重な稀少本であるばかりでなく、その細密画にはキリスト教的な画風が見られ、また使われている塗料はイスラム教圏の宮殿でもちいられる高級なものであることがわかっている。つまりこの「サラエボ・ハガダー」は、長年のあいだ人々の対立のもととなり、また現在も世界各地で紛争の火種のひとつとなっている宗教上の垣根を越えて、それぞれが影響しあい、融合してできあがったものの象徴という意味合いをも秘めている。

 そんな貴重な「サラエボ・ハガダー」の修復にたずさわるという栄誉を与えられたハンナを語り手として進んでいく本書であるが、その中心にいるのが「サラエボ・ハガダー」であることは間違いないし、物語もまた、ハンナによる調査の過程で発見された事実や物品――蝶の羽、留金があったはずの溝、ワインや海水の染み、色のついた毛といったささやかなものから、その物品にまつわる過去の物語が語られていくという形式となっている。そしてハガダーが他ならぬユダヤ教徒の本である以上、そこに大虐殺や異端審問、流刑、戦争といったさまざまな災厄がともなっていたこともまた厳然たる事実である。はたして、この「サラエボ・ハガダー」は誰が、どのような思いで作成し、そして出来上がった本はどのような変遷と危機を乗り越えて現代に到ることになったのか。ほんのわずかな手がかりをもとに、まさに「古書の来歴」を探る歴史ミステリーとしての要素をもつ本書だが、なによりその裏に隠されている壮大な物語に、まずは圧倒される。

 その物語は、宗教上の対立とそれがもたらした数多くの悲劇の物語であり、裏返せば人間の尽きせぬ欲望と、今もなお犯しつづける罪の歴史を綴ったものだとも言える。同じ人間でありながら、どうしてもわかりあえず、お互いに傷つけあい、大きな争いが生じ、そこからさらに憎しみや悲しみが連鎖していくという悪循環――そうした人間の弱さ、愚かさというテーマは、小説としては定番中の定番であるが、無機物としての本である「サラエボ・ハガダー」を中心に据えながら、じつはその本に何らかの形でかかわった人々の物語を紡ぎだす、という形式こそが、本書の重要な点である。歴史的には壮大な「サラエボ・ハガダー」ではあるが、そこに点としてかかわった人々は、じつはそれぞれが小さな人間でしかない。時代の不条理に翻弄されながらも、それでもなお精一杯自分の生を生きようとした人たち――それは、「サラエボ・ハガダー」が現代まで残っていなければ、そしてハンナをはじめとする大勢の人たちの調査がなければ、名もなく埋もれてしまったはずの人々の物語でもある。

 ユダヤ人たちが辿った苛酷な歴史、それこそナチスのホロコーストや、過去の宗教弾圧や禁書、国からの追放といった要素ばかりが目立つ本書であるが、どうしてもわかりあえない人々の姿という意味では、ハンナとその母親との確執も、本書の重要な要素となっている。有名な脳神経外科医であるサラは、ハンナが医者ではなく古書鑑定家を職業としたことに不満をいだき、それ以来ふたりの関係はぎくしゃくしているのだが、その確執の根はもっと深い部分にあり、たとえ親子であっても相手の立場を尊重する、理解していくことの難しさを物語るものである。だが、何より「サラエボ・ハガダー」の物語のなかに、ハンナ自身の人生も組み込まれていることに気づいたとき、私たちはちっぽけで愚かな人間の未来に、ほんのわずかながら希望を見出さずにはいられなくなる。なぜなら、「サラエボ・ハガダー」が現存する、ただそれだけの事実が、いかに多くの人たちの奇跡によって成り立ったものであるのかを、私たちはすでに知っているのだから。

 本書は「サラエボ・ハガダー」の過去に光を当てる物語であるが、そこに積み上げられる物語は、今もなお継続中である。数々の奇跡によって存続を許されている「サラエボ・ハガダー」が、今度はどのような奇跡を見せてくれるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2010.07.28)

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