【白水社】
『イン・ザ・ペニー・アーケード』

スティーヴン・ミルハウザー著/柴田元幸訳 



 スティーヴン・ミルハウザーの書く小説には、読み手の心の内にある原風景を刺激するものがある。わかりやすく言えば、どこか懐かしい感じがする。生まれた国も、話す言葉も、育った環境も異なるはずなのに、まるで子どもの頃の私が心惹かれたものを見聞きしてきたかのように、驚異と脅威の入り混じった物語を用意してくる。

 たとえば、私の家には子ども向けのカラー大図鑑があって、小さいころの私は暇があるとその大図鑑のページをとりとめもなくめくっていくのが好きだったという記憶がある。そこに書かれているのは、間違いなく現実の世界にある事柄であるのだが、まだ自身の捉える世界がごく狭く、また現実と想像との境目が未分化な子どもにとって、カラー図鑑のなかにあるのは、自分の知らない世界に属するもの――いくつもの驚異に満ち溢れた世界であり、それは子ども心をくすぐるに充分な要素を携えていたのだと、今にして思い出す。

 お祭りの夜店のごとく、どこか胡散臭いにもかかわらず、いっぽうでどこか人を惹きつけずにはいられないあの不思議な雰囲気は、前回紹介した同著者の『バーナム博物館』のなかにもたしかにあったものだ。今回紹介する本書『イン・ザ・ペニー・アーケード』は、表題作を含む7つの中短編を収めた作品集だが、いずれも小さな子どもが心惹かれるような情景が軸となって、物語が展開していくという体を成している。

 たとえば、本書の最初に収められた中編『アウグスト・エッシェンブルク』は、ぜんまい仕掛けの人形づくりにその才能を見出した男の物語であり、彼の創作物は、それがぜんまいと歯車でできた人形であるとは信じられないほどの、複雑な動きをしてみせるのだが、その原風景として出てくるのが、彼が14歳のときに市で見た「魔術師コンラート」の見世物である。

 時計作りの職人である父の影響で小さいころからその内部構造に並々ならぬ興味をもち、ときには自作で動く絵のからくりなどを作っていた彼にとって、人形というにはあまりに多くの動作パターンをもち、まるで本当に生きているかのように見えたぜんまい仕掛けの手品師人形は、彼の今後の人生を大きく変えるに充分なインパクトをあたえるものだった。ここで重要なのは、後の彼が作ってみせるぜんまい仕掛け人形の高い技術力ではなく、彼自身と、彼の創作物たる人形との関係だ。アウグストにとって、ぜんまい仕掛けの人形はたんなる人形ではなく、それ以上のもの――その全生涯をかけるに足る、それこそ人間をも超えるような理想の存在であり、だからこそ彼は、人間のちょっとした仕草といったものまでからくりの動きに組み入れ、自然な感じを演出することに腐心する。

 ぜんまい仕掛けの手品師はバター作りの娘よりもはるかに高等であり、ほとんど別世界の住人と言っていいくらいなのだ。その別世界に、その別世界にのみ、アウグストは恋焦がれた。

(『アウグスト・エッシェンブルク』より)

 同じ絵本を何度も繰り返し読んでくれとせがむ子どもの心理は、大人になってしまった私たちからすれば不可解で、無駄なことをしているように思える。すでに読んだ絵本であり、ストーリーも結末もわかっているはずなのだ。だが、さまざまな境界が未分化な子どもにとって、同じ絵本を読んでいるにもかかわらず、その心のなかでは以前とは異なった世界が広がっている。アウグストとぜんまい仕掛けの人形との関係は、それと近いものがある。だが同時に、彼以外の人間にとって、人形はあくまで人形でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、彼の高い技術を買って、金儲けの種にしようと考える者たちとの関係は、必然のものとして破綻する運命にある。そもそも本書の時代設定として、ぜんまい仕掛けそのものが、すでに時代遅れの産物と化しつつあるのだ。

 物語が動き出すきっかけとなる、ある出来事――人の心にある原風景を刺激するそれらの出来事は、かならずしも懐かしさだけでなく、どこか人を不安にさせるような要素も持ちあわせている。『太陽に抗議する』にしろ、『湖畔の一日』にしろ、不意打ちのようにやってくる不安を表現した作品であるが、それは、なんとか説明をつけようとして、しかしそれがうまくいかない大人たちの、大人だからこその論理ゆえのものであり、言ってしまえば、共通する要素に対する接し方の違いにすぎない。

 そういう意味では、表題作である短編『イン・ザ・ペニー・アーケード』は象徴的な作品だ。語り手である「僕」は、二年ぶりに遊園地にあるペニー・アーケードに勇んでやってきたものの、そこにあるのは以前に彼が夢みた「別世界」としてのペニー・アーケードではなく、色あせて魅力を失った、安っぽい現実である。どちらかが正解で、どちらかが間違いという見方は、そもそも意味のない捉え方だ。なぜならそれを決めるのは、他ならぬ自分自身だからである。

 ペニー・アーケードの住人たちは、もはや彼らを信じなくなった人々の視線の呪縛によって、その自由を失ってしまったのだ。――(中略)――彼らを理解する者の、慈しみに満ちた視線を浴びれば、元の彼らに近い姿に一跳びに戻れるかもしれないのだ。

(『イン・ザ・ペニー・アーケード』より)

 成長して知識をつけ、自身の世界がどんどん広がっていくにつれて、私たちはいろいろなものを獲得してきた。それが大人になるということなのだが、同時にその過程で何かを失ってもいるのだ。日々の生活のなかで、私たちはその失ったものについて意識もしないし、それでどうということもない。だが、本書もふくめた著者の作品は、そんな私たちの失ったしまったものを妙に意識させるものがある。はたしてあなたは、本書のなかにどのような「別世界」を垣間見ることになるのだろうか。(2011.12.02)

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