【白水社】
『紙の民』

サルバドール・プラセンシア著/藤井光訳 



 かつて一度だけ、私と同じ名字の登場人物が出てくる小説を読んだことがあるが、私とはまったくの別人であるとわかっているにもかかわらず、同じ苗字という、ただそれだけのことが妙に意識されて、慣れるまではまるでその人物が私自身のことを指しているかのような、なんとも落ち着かない気分が続いたことを覚えている。これは、私の名字がそこそこマイナーなものだという事情も影響していたのかもしれず、あるいは「佐藤」や「鈴木」といった超メジャーな名字をもつ読書家であれば、また別の反応もあったのかもしれないが、小説という虚構のなかに、他ならぬ自分自身が登場するのをまのあたりにしたとしたら、あるいはこんな気分なのかもしれない、とふと考えるいい機会でもあった。

 言うまでもないことであるが、小説の世界は基本的に虚構であって、そこに登場する人たちもまた、現実には存在しない。たとえ、実在する人物を小説に登場させたとしても、その人物はあくまで小説の書き手の意思というバイアスがかかったものであって、純粋にその人物そのものが具現化されたというわけではない。言い換えるなら、それが小説という表現形式である以上――いや、およそ人の手によって生み出された創作物はなんでも――その作り手の影響から逃れることは叶わないし、だからこそ私たち読者は、小説をつうじて作者という人間の世界観とつながることができる。

 だがもし仮に、物語の書き手が、他ならぬ書き手自身の影響からも逃れていくような創作物を生み出すことを望んだとしたら、はたしてそれは、どんな姿形をしたものとなるのだろうか。

「今のところ、俺たちはここにいる。こっちのほうに押しやられてる。土星は俺たちをクライマックスに持っていって、そのあと結末に持っていきたいわけだ。だから、人生を破壊される前に、俺たちはそれを止めなくちゃいけないんだ」

 今回紹介する本書『紙の民』というタイトルには、ふたつの意味が込められている。ひとつは文字どおり「紙でつくられた人間」という意味で、折り紙外科医という奇跡の仕事を成すアントニオという男が、さまよえる修道士のひとりから教わった「工場」で、魂をもつ紙製の女性を創造するという冒頭のエピソードからも容易に想像のつくものである。そしてもうひとつは、「書物という紙でできた世界のなかで生きる人々」という意味であるが、これは本書の特長としてひときわ目を引くものであり、また物語を動かす原動力ともなっている。なにせ本書の登場人物たちは、多かれ少なかれ自分たちが小説の登場人物であり、紙で綴られた書物の世界を生きているということを自覚しているところがあるのだ。

 もちろん、物語の最初からそうしたメタ的な要素が見えているわけではない。だが、登場人物のひとりであるフェデリコ・デ・ラ・フェが妻のメルセドに逃げられ、ひとり娘とともにメキシコからロサンゼルス郊外にあるエルモンテに移住してきた頃から、その兆候はすでに示唆されている。それは、自分の言動や心のなかで思っていることが、何者かにすっかり見透かされているのではないか、というのしかかられるような力として彼には感じられるものであるが、まるでそれを裏づけするかのように、本書の一番上の段――すなわち本書の天上界には「土星」と呼ばれる章が存在し、三人称による物語が進んでいくいっぽうで、その下の段には、その登場人物たちの一人称による視点が、同時進行的に描かれるという形がしばしば現われてくる。

 常に登場人物の頭上に君臨し、彼らのプライバシーなどいっさい考慮せず、物語をしかるべき方向に進めていこうとする「土星」、またの名を本書の著者であるサルバドール・プラセンシアに対して、フェデリコはエルモンテのストリートギャングであるEMFを率いて、自身の自由意志を獲得するための戦争をしかけていくという、その説明だけを聞くならおよそ荒唐無稽な展開の本書であるが、小説という虚構世界の住人たる登場人物たちが「紙の民」であるという自覚をもつことが前提として成立している本書内の世界において、あたかもマジックリアリズムであるかのような危うい平衡感覚をたもちつつ、物語は持続していく。もっとも、ここでいうマジックリアリズムとは、幻想と現実の入り混じるようなものではなく、むしろ虚構という名の魔法が現実すら凌駕するルールとして適応されているところがあり、そのルールのなかでは、物語の書き手でさえ従わざるを得ない。

 彼らにとって神たる書き手は、土星という惑星規模の力を発揮する存在として認識され、それゆえにEMFのメンバーは土星を攻略可能な「敵」として戦いを挑むことになるし、その書き手たるサルバドールは、物語の書き手という役割からいったん離れてしまえば、彼らと同じようにひとりの無力な人間にすぎない。それゆえに、登場人物のひとりであるスマイリーが、空の裂け目から土星のいる部屋に入り込んで対話するといったメタ展開も起これば、愛した女――本書で賛辞をささげている女性――に逃げられた人間たる土星が、一時的に物語の進行を手放してしまうような事態も発生する。そして、そんな書き手の恋の苦しみは、登場人物たるフェデリコの立場とまったくの対等なものとしてリンクすることになる。そのいっぽうで、紙の体をもつメルセド・デ・パペルは、世界を放浪するなかで大勢の男たちと愛を交わすような存在として物語のなかに登場する。

 虚構の世界の住人も、その創造主たる書き手も、さらには紙の体をもつゴーレムのような存在も、本書のなかではすべて同じルールに従う対等な者として扱われる小説――それがおそらく、著者が目指した作品の大きなテーマである。そして物語は、土星戦争やその首謀者たちの恋の行方といったものだけではない。じつは聖人だった覆面プロレスラーや、蜜蜂の毒で光輪をいだくカメルーン、じつはメキシコ人だったという設定の女優リタ・ヘイワース、さらにはすべての過去と未来を見通す預言者としての力を宿す赤ん坊や、機械でできたカメなど、じつに魅力的なキャラクターが登場し、過去や未来、生と死といった区切りすらも超越し、書物という名の紙の世界でそれぞれの人生という物語が入り混じっていくのだ。

 メタ的な構造をもつ物語――もちろん、作中に作者本人が登場したとしても、それを書いたリアルな作者がその上にいるという事実は揺るがない。だが、本書のなかで作者が土星という惑星を隠れ蓑に虚構世界に君臨し、物語のキャラクターたちと同じレベルで戦争を仕掛けるという構造は、作者自身の虚構性と現実性をあやふやにしていくし、その影響は、本書を読んでいる私たち自身にとってもけっして無関係でないことを、本書を読み続けていけば、いずれ気づくことになる。はたしてこの物語は、あなたをどのような境地に導くことになるのだろうか。(2012.09.24)

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