【早川書房】
『出てゆく』

タハール・ベン・ジェルーン著/香川由利子訳 

背景色設定:

 自分がまぎれもない自分自身であるという認識は、生来備わっているものではなく、自分以外の多くの他者との関係性をつうじて少しずつ形成されていくものである。もしこの世に人間が自分ひとりしか存在しなければ、自分が自分であるという自己同一性など必要としない。そういう意味では、今現在の私たちの在りようというのは、自分の周囲にあるさまざまなものとの関係性――意識するしないにかかわりなく、影響を受けずにはいられない関係性の集大成だと言うことができるし、逆に言えば、私たちが「個性」と呼ぶものの形成において、自分の生まれ育った環境、それこそ、自分がどこの国で生まれ、どのような文化のなかで育ったのかといったことや、おそらくはじめて接することになる他者たる両親をはじめとする血族関係などは、当人が考えている以上に、その人の個性に深く根ざすものであって、切り離そうとしてもなかなか切り離せるものではない、ということでもある。

 自分が自分であるために帰属すべき場所というのは、それがじっさいの国や土地であれ、あるいは教訓や宗教といったものであれ、その人の心を支えるという意味では重要なものであるが、そうした土台を何もないところから独力でつくりあげていくとなると、けっして生半可なことではない。今回紹介する本書『出てゆく』には、故郷たるモロッコでの未来に絶望し、一刻も早くこの国を出て行くことにとり憑かれた、アゼルをはじめとする若者たちが登場するが、この「出てゆく」というタイトルは、とにかくこの国から脱出したいという願望ばかりが先行してしまい、それまでの自己を形成してきたすべてを捨て、国を出るという重大な決意をしてまでやりたかったことは何なのか、といった部分がすっぽりと抜け落ちているという意味で、その悲劇はあらかじめ予見されていたと言うことができる。

 国を出てゆく。それは強迫観念、昼も夜もアゼルの頭を離れない狂気のようなものだった。――(中略)――強迫観念はたちまち呪いとなった。彼は迫害され、呪われ、それでも生きていく運命にあると感じている。トンネルから出たと思ったら袋小路だ。

 本書に登場するアゼルという青年は、非の打ちどころのない男の典型である。容姿端麗で女性に苦労することはなく、また頭脳明晰で大学では法律を学び、弁護士としての免状も手に入れた。弁護士事務所を開いている叔父に雇ってもらえるとばかり思っていたのだが、その事務所は依頼人たちが流した悪評によって運営を続けることが難しくなり、結局閉じざるを得なくなった。具体的に何が起こったのか、詳細は書かれていないものの、本書を読んでいくと見えてくる、アゼルを取り巻く周囲の状況を鑑みると、「みんなと同じようにするのを拒んだ」という言葉が、おそらく賄賂といった不正を拒否したという意味合いを帯びているのが察せられる。

 法律があるからには、彼の生きるモロッコもまた法治国家であるはずなのに、そこには法律よりも強い力が働いていて、大勢の若者の未来を閉ざしてしまっている。そこでは、アゼルのような優秀な人材であっても容易に職に就けず、姉の稼ぎをあてにして細々と暮らしていくしかない。ここでいう「強い力」とは、金と権力だ。公然と汚職がまかりとおり、貧困と格差がますます開いていくだけのこの国において、したたかに生きていくだけのある種の割り切りができずにいるアゼルのような若者は大勢いて、しかし彼らにできるのは、海の見えるカフェにたむろし、海の向こうにある自由の象徴たるスペインに思いをはせるか、イスラム原理主義の活動に身を投じるしかないという状況だ。しかも、そのどちらを選んだとしても、結果は悲劇でしかないということが、本書冒頭で描かれる光景によって象徴されている。

 本書を貫いているのは、未来が閉ざされているという閉塞感と、この国にいるかぎり現状を変えることができないという絶望感、そしてそうした状況に対していだかざるを得ない、行き場のない怒りややるせなさといった感情であるが、未来を担うはずの若者たちが自分の生まれ育った国を愛することができず、ひたすらそこから出ていくことばかりを望むような状況が、どれだけ絶望的なのかを思わずにはいられない。それはある意味、先行きの見えない今の日本を髣髴とさせるものがあり、そういう部分で共感するところも多いのだが、それよりも重要なのは、アゼルのように自分を偽って国外へと出ていくことに成功したとしても、その先に待っているのがかならずしも幸福というわけではない、という現実である。

 アゼルはスペインで成功した富豪であるミゲルの愛人になるという手段でもって、モロッコを脱出することに成功したし、さらにはその愛を利用して姉をスペインに呼び寄せ、ミゲルとの偽装結婚にこぎつけることさえ成功した。だが彼はけっして同性愛者ではないし、国には付き合っていた女性もいたのだ。言ってみれば、アゼルは自分が自分であるためのあらゆるものとの関係性を断ち切っただけでなく、それまでの自分自身を偽って生きることを選んだということだ。自分を見失い、それを再構築しようと紆余曲折した結果、アゼルを待っていたのがより大きな悲劇でしかない、という意味で、本書にはおよそ救いというものがない。何よりやるせないのは、アゼルのような立場にいる若者が、ではどうすれば幸福になれたのかという問いかけに対して、なんら答えを見出すことができないということである。

 ある者は原理主義グループの勧誘に乗って姿を消し、二度と国に戻ってこなくなり、ある者は劣悪な条件で働いたあげく、病気になって死を待つだけの体となってしまう。そうでない者たちも、国を出ていくことばかり考え、じっさいに海を渡ろうとしたものの、船が沈んで溺死するか、警察に捕まって連れ戻されてしまう……だが、いずれにしても人々は、自分の人生を生きていくしかないという悲哀に満ちている。たとえ、海を渡った先にあるのが底なしの闇であったとしても。はたして、本書に登場する若者たちにとって、救いとはどういうものであるのかを考えずにはいられない。(2010.09.09)

ホームへ