【文藝春秋】
『パーク・ライフ』

吉田修一著 
第127回芥川賞受賞作 



 この世にはまず自分がいて、自分以外の大勢の他者がいて、そしてときに、両者のあいだにさまざまな関係が発生する。親子関係、親戚関係、恋人どうしの関係や親友、友人関係、会社をはじめとする団体の同僚、あるいは同級生、師弟関係やお得意先、ご近所との関係……。こうしてあらためて考えてみると、世の中というのはじつにさまざまな人間関係によって成り立っているのだ、ということを実感する。

 人はひとりでは生きていけない。真の意味での孤独というものに耐えられるほど、人の心は強いわけではないし、かりにそんな人がいたとしたら、まともな社会生活をおくることなどできないだろう。そもそも、他者との関わり合いをいっさい断ち切って生きることなど、この世の中では不可能である。だが、だからといって四六時中、自分と相手との距離に注意し、不用意に相手を傷つけたりすることのないよう、言葉を選びながらつき合いつづけていくのは、非常に骨の折れる作業でもある。本書『パーク・ライフ』を読み終えて思ったのは、けっして孤独なわけでもない、しかしあまりにも自分をさらけだしたり、相手と深く結びつこうとするわけでもない、いかにも現代人らしい、人と人との微妙な距離のとり方が描かれた作品だ、ということである。

 地下鉄の中でぼんやりしていた主人公の「ぼく」が、後ろに知人が立っていると思いこんで、つい見知らぬ女性に話しかけてしまう。しかし、その女性は一瞬のちに、「まるで十年来の知り合いに話すよう」に言葉を返してきた。そしてその女性は、「ぼく」もよく立ち寄る日比谷公園をよく利用していた――物語はそんなふうにしてはじまる。男と女の偶然の出会い、というシチュエーションは、えてして恋愛のひとつでも芽生えそうな雰囲気を漂わせているものだが、本書についてはけっして、巷に溢れているラヴソングのような展開になることはない。だいいち、その女性はけっきょくのところ、最後まで名前が明らかになることがないのだ。「ぼく」とその女性との距離は、劇的に接近するわけでもなければ、劇的に遠ざかるわけでもない。そうした微妙な距離感が、うまく表現された作品だと言えよう。

 じっさい、「ぼく」の交友関係というのは、どれもどこか不思議な距離を感じさせるものばかりである。夫婦そろって別居してしまった宇田川夫妻のマンションを、ペットの猿を世話するという名目で使わせてもらったり、先輩社員である近藤が苦手でありながら、でも同じ理由で好いていたり……。自分の母親をも含めた周囲の人たちと、けっしてうまくつき合えないわけではないが、かといって、必要以上に彼らの事情に首を突っ込んだりすることもない。また、自分の心を大きく揺さぶられることもない。それは、ともすると上辺だけのつきあいのようにとられてしまいがちなのだが、けっしてそうしたつき合いを軽視しているわけでもない――そんな関係を、著者は日比谷公園に集う人たちとの関係に見立てている。

「ほら、公園って何もしなくても誰からも咎められないだろ。逆に勧誘とか演説とか、何かやろうとすると追い出されるんだよ」

 もちろん、実際の公園は必ずしも「何かやろうとすると追い出される」場所なわけではない。大きな災害が起これば、まっさきに避難場所として機能する場所であるし、また本物の日比谷公園に行ったことのある人はわかると思うが、休日などはしばしばなんらかのイベントで、噴水広場などは大きな賑わいを見せたりもする。本書における公園というのは、あくまで象徴――社会で生きていくうえで必要なさまざまな人間関係から一時的に解放され、近すぎもせず、また遠すぎもしないゆるやかな関係を、同じ場所で過ごす、という一点において共有する場所としての公園である。カップルもいれば親子連れもいるし、ひとりで絵を描いたり写真をとったり、ぼんやりしたりする人も、ホームレスの人もいる。そんなごちゃまぜの空間は、まるでやたらと複雑になってしまった人間社会そのもののようでさえある。

 本書に収録されているもうひとつの作品『flowers』では、主人公の石田が勤めることになった、飲料水配送会社の先輩社員である「望月元旦」なる人物が登場するが、彼の人間関係もまた、ある意味では微妙な距離を感じさせるものである。ただ元旦の場合、どちらかというと距離感というよりも、自分と相手との間に、まるで距離など存在しないかのようにふるまう。その印象を、石田は「羽毛」にたとえているが、それは『パーク・ライフ』のように近くも遠くもなく、またけっして重苦しくも軽々しくもない関係ではなく、不意にずかずかと近づいてきたかと思えば、手のひらを返したかのように遠ざかってしまい、相手をする人間が、どのように距離をおけばいいのか困惑してしまうたぐいの関係なのだ。

『パーク・ライフ』では公園が象徴だったが、『flowers』の場合は生け花が象徴の役割をはたす。石田も元旦も、ともに我流で生け花をやるのだが、石田がそれでもなお生け花の基礎を知り、その形をなぞろうとするのに対し、元旦の場合は完全な我流で、それまで華道というものが積み重ねてきた形を、ともすると破壊してしまいかねないやりかたである。

 規制の枠を打ち崩す荒々しい力というのは、ある不思議な魅了をもっている。だが、それは同時にその人自身をも破滅させかねない、危険な魅力でもあろう。そして、人と人との関係や、その距離というものに常に注目してきたはずの著者が、『パーク・ライフ』へとたどり着いたことに、私はある感慨に近いものを感じる。

『パーク・ライフ』的な人間関係が、はたして良い傾向なのか、それともよくない傾向なのか、本書だけではなんとも言えない。それは現実の人間関係にあてはめても同じことだろう。だが、21世紀を迎えたこの世界において、人も、人と人との距離も変わりつつある。本書はそのことを明確に示してみせた作品でもある。(2002.10.24)

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