【筑摩書房】
『青白い炎』

ウラジーミル・ナボコフ著/富士川義之訳 

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 ある作品についている注釈というと、ふつう思い浮かべるのは、たとえば海外の文学作品の翻訳版であるとか、あるいは国内の文学であっても「古典」に属するほど古い作品の現代語訳などに対して、その本文だけでは理解するのが難しい部分を補足するためにやむをえず付け加えられた説明文、といったものだろうと思う。私たちが生きる現代と、それらの文学作品が書かれた背後にあるものとの違い――その国の気候や文化、宗教、歴史、生活習慣といった違いから生じる差異は、言ってみれば必然的なものであり、そういった背景を理解するのに、注釈行というのはある程度必要であることは私も認めるところではあるが、ではそうやって訳された作品の、その「注釈」の部分は、はたして作品の一部と言うべきなのだろうか、という問題と私たちはぶつかることになる。

 もちろん、注釈は注釈であって、それ以上でも、それ以下でもない、というのが順当な考えだろう。だが、異なる国の読み手に、できるだけその原作がもっているものに近い形で理解してもらうのに必要だと判断された結果、付加されたものが注釈であるとすれば、もしその注釈がなければ、少なくとも注釈がつけられた原文に関しては多くの人たちに誤解を生じさせ、本来もっているはずの味わいが損なわれるばかりか、その意味さえ曲解される恐れさえ出てくることになってしまう。そのように考えていくと、たとえばページの左半分が注釈によって構成されているという、ある種確信犯的な田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や、あくまで翻訳ものである、というスタイルを貫くための装飾品として注釈行を随所にちりばめている古川日出男の『アラビアの夜の種族』といったものとは異なり、注釈というのは本来、その文学作品の付属品であり、作品そのものではないにもかかわらず、ことによると翻訳以上にその作品のスタイルを決定づけてしまうという、なんとも因果な役目を負った付属品なのだとも言える。

 今回紹介する本書『青白い炎』というタイトルは、もともとは一篇の詩につけられたタイトルでもある。著名なアメリカ詩人ジョン・フランシス・シェイドが、その生涯の最後に書いた999行におよぶ長大な詩――本書は、その難解な詩を本文に、シェイドの良き隣人であり、ロシア文学教授でもあるチャールズ・キンボードなる人物が前書きと注釈、そして索引を付け加えることによって完成した作品、ということになっている。そういう意味では本書は、『青白い炎』という詩、そしてその作者である詩人シェイドの研究書という体裁を整えているわけであるが、じっさいに本書を読み進めていくと、詩中のある語彙や文章の一部に対する注釈としては、あまりにも長すぎるキンボードの文章が、ただたんに長すぎるというだけでなく、詩については素人である私から見ても、およそ本文である詩の内容とはまったく関係のないことを書きつづっているのがわかってくる。

 シェイドの詩が表現しているのは、自身の少年時代のことや親族のこと、あるいは最愛の娘の死のことや、自身の臨死体験など、全体としては詩人自身の生涯を詠った、言ってみれば自伝詩のようなものである。だが、その詩に対するキンボードの注釈は、たとえば自身がシェイドの良き理解者として、どれだけ彼と深い交流をつづけてきたかであるとか、索引のなかではたんに「遠い北国」としか書かれていないゼンブラ王国で起きた革命や、その国王の冒険的な逃亡劇の様子であるとか、あるいは海外へ亡命したゼンブラ王の行方を追っている、グレイダスなる暗殺者の足跡とかいったことなのである。そして、ほとんどこじつけに近いものさえ感じられるそれらの注釈のなかで、キンボード教授は詩人に対して、ゼンブラ王国とその国王のことを、詩の題材として書いてほしいとしきりに懇願しているのである。

 つまり、本書の長大な注釈部は、それ自体が長篇詩『青白い炎』の製作過程を描いた読み物としても機能しているのだ。しかも前述したように、その注釈はあくまで注釈者であるキンボードの主観によるもの――むしろ、そうあってほしいという願望が入り混じった、きわめて歪んだ形の主観によって書かれたものであり、およそ注釈としての役割をはたしていないというのが実情なのだが、本書が詩の研究書ではなく、注釈部分もふくめたひとつの物語であると考えたとき、読者はそこにさまざまなサスペンスが隠されていることに気がつくことになる。

 キンボード教授は、なぜゼンブラ王国のことをシェイドに書かせようとしているのか、なぜゼンブラ王国でおこった革命について、これほどまでに詳しいのか、そもそもキンボードとは何者なのか? シェイドの家のすぐ隣に住み、何度となくその家を覗き見し、シェイドの行動を逐一監視しようとするその異常性は何なのか? そして暗殺者グレイダスと、他ならぬこのアメリカに亡命しているというゼンブラ国王の命運は? 書かれている事柄が、読んでいくうちにどんどん主題から逸脱し、読み始めたときに抱いていたイメージを大きく裏切っていく点、そして何より、その書き手が最大の謎である点などを考えると、その構造にはジョン・ランチェスターの『最後の晩餐の作り方』を思わせるものがあるが、『最後の晩餐の作り方』が、あくまで「料理エッセイ」を装ったミステリーでしかないのに対して、本書の場合、「詩の研究書」を装いながら、最終的には主たる詩そのものを、他ならぬ「注釈」によって超越していこうとする主従の逆転現象こそがメインだという点だろう。

 いったんあなたが詩に変えてしまえば、材料は真実のものとなるし、人びとは生気にあふれる人びとになるでしょう。詩人が浄めた真実は何らの苦痛も、何の罪も生じさせないものなのです。真実の芸術は偽りの名誉を超越しているのですから

 キンボードのこの台詞は、彼がこれまで話して聞かせたゼンブラ国王に関する逸話に対して、「こうした個人的な材料が正しいものだということを、どうやって知ることができるのかね?」と問いかけたシェイドへの返答として発されたものであるが、これはそのまま、本書を通じて著者であるナボコフ自身が目指そうとしていたテーマにもつながっていくものである。言葉の絶対性――「真実の芸術」として現世に生み出された言葉は、現実そのものさえも超越していくものだ、という強い信念は、たしかにある意味常軌を逸したものであるが、本書に登場するキンボード博士が真実、狂人であるかどうかはともかくとして、彼が完成させた『青白い炎』の注釈書――そこに描かれた架空の王国の様子は、たしかにその本文であるはずの詩を凌駕するだけの存在感とリアリティに溢れていると言うことができる。そして、その事実は同時に、あくまで虚構であるはずの小説世界が、現実以上にその存在感を獲得した、ということでもあるのだ。現実と虚構との逆転現象という意味で、本書はきわめて実験的な要素の強い作品でありながら、きわめて高い完成度を誇っているのである。

 ある作品の注釈であるはずの文章が、注釈行としての枠を越え、ついには主たる作品そのものさえも越えて、まるで風船が膨らんでいくように無限に想像を広げていく――そこにはまさに、言葉であることの限界を突き抜けていくだけの狂気と、恐るべき言葉の可能性が秘められている。(2004.08.22)
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