【幻冬舎】
『パコと魔法の絵本』

関口尚著 



 過去のことにこだわりつづけるというのは、生きていくうえで建設的なことではない、という考えが常に私のなかにある。すでに起きてしまったことはもう取り返しがつかないし、けっしてなかったことにできるというわけでもない。であれば、過去は過去として受け入れたうえで、これから何をするべきか、という視点で生きていったほうが、よほど自分自身のためでもある、と。だが同時に、それがまだ若い人たちの考え、未来に時間がたくさん残されている人たちの考えでもあることを、最近になって自覚するようになっている。時が経つにつれて、蓄積されていく過去の時間は確実に増加し、いつかその総量は来るべき未来に残されている時間を超えることになる。そうなったとき、残り少なくなった未来のことよりも、それまで経てきた過去の時間のほうに、より大きな価値を見出すことになったとしても、さほどおかしなことではないのかもしれない。

 過去はけっして変えることができない。どんな失敗や最悪の出来事も、起こってしまったという事実は取り消せない。その強固な不変性はときに理不尽さを感じさせるものでもあるが、逆にいえば、強固であるがゆえに私たちにとって、アイデンティティの拠り所として大きな役割をはたすことができる、ということでもある。そして、過去の時間をたしかな自分の一部として受け入れることができるとすれば、変わっていくのは過ぎた時間ではなく、私たち自身である。今回紹介する本書『パコと魔法の絵本』は、時間、とくに人々が抱えていく過去の時間に対して、いろいろな象徴的意味合いをふくむ作品であり、そうした視点でこの物語をとらえると、見えてくるものもずいぶんと違ってくる。そもそもこの物語自体、一人称の主体である浩一が、大叔父にあたる大貫老人の過去の話を聞く、という体裁をとっているのだ。

 もともとは科学の実験器具を扱う小さな町工場に過ぎなかったルワールを、一代で多角経営の企業グループの頂点にまでのし上げた大貫は、その長年の苦労がたたって心臓を悪くし、息子の妻が看護師長を勤める病院に入院することになった。だが、そこにいる患者も医者も一風変わった人たちばかりであり、仕事にかかわれないという事情もあって、彼の不平不満はつのる一方、そのうっぷんを周囲に当り散らすことでうさばらしをするという、なんとも迷惑な人として描かれている。会社を大きくすることに自身の人生をそそぎ、その過程でやさしさや情けといった感情を振り捨てていった大貫には、その結果として今の地位があるという自負があり、それがさらに周りの人たちを見下し、馬鹿にするという性格を増長させることになった。とくに病院という場所は、心身の弱った人たちが入るところであり、そういう意味でそこの人たちは彼の格好の的でもあった。

 ときには勝手に高級ホテルに外泊し、ときには目の前で苦しむ自殺未遂の患者をゴミ扱いしてせせら笑い、ときには死んだ子どもの育てた花壇を無残に踏み荒らしていく大貫老人は、当然のことながら周囲の人たちからも嫌われているわけであるが、その心なさ、器の小ささは、読者にも不快なものとして映る。どこまでも自分が中心、弱い人間は彼にすればクズ同然であるがゆえに、そんな彼らに自分のことを覚えていられることさえ不満だとうそぶく彼が、しかしパコという名の少女との出会いを通じて、それまでの身勝手な自分を心から反省し、パコのために何かをしてやりたい、という殊勝な気持ちになっていく。本書はそういう展開の物語なのだが、当初の大貫老人と、パコの特殊な症状のことを知ったあとの大貫老人とのギャップがあまりに大きく、その変化があまりにも唐突で不自然な感じに映ってしまうことは否めない。だが、そこに個々が積み重ねていく過去という時間をひとつの視点として見てみると、なるほどと思えてくる要素が隠されていることに気づく。

 パコが置かれている状況は非常に特殊なものである。彼女は交通事故で両親を失くしたが、その事故で自身も脳に損傷を受け、一日しか記憶をたもつことができない。夜になって眠りにつくと、その日見たり聞いたりしたことすべてを忘れてしまうのだ。それは人としての経験を過去に残すことができない、彼女の時間が止まったも同然の状態であることを意味する。そして大貫はもういい歳をした老人だ。彼にとって過去の時間とは、今の自分が自分であるために重要な要素だ。彼にとって時間が止まる、というのは、言ってみればアイデンティティの喪失と同等の意味をもつ。そう考えると、あの悪の権化のような大貫老人が、パコの置かれた状況にこのうえない同情心を寄せるという展開にも、納得がいく。パコには、これから変化していくという可能性が、すでに閉ざされてしまっているのだ。そして変化しないということは、そこを基準として強くなるとか、弱くなるとかいった価値観を無意味なものにしてしまう。

 大貫老人をはじめとして、本書に登場する人たちはいずれもひとクセもふたクセもある性格で、ある意味濃いキャラクターとして存在しているが、彼らのなかで共通しているのは、自分が今の自分であるための、しっかりとした過去をもっている、という点である。消防士の滝田には、かつていじめっこの腰巾着としてふるまっていた過去の自分を変えたい、という思いがあり、看護師のタマ子もまた、過去のひねくれた自分を変えたある人の存在を大事にしてきている。かつて子役スターとして名をはせていた室町もまた、他ならぬその過去にとらわれ、そこから脱却できずにいる自分に苦しんでいる。本書はあくまで大貫とパコの物語ではあるが、こうした人たちの過去に触れることで、過去の積み重ねの結果としての今がある、というあたり前のことを、読者はあらためて思い知ることになるし、だからこそタマ子の「変わらない人間はばかなんだぞ」というセリフは胸を打つ。

 たしかに大貫はかつてクソじじいだった。けれども、変わったことを認めてやらなくちゃいけない。変わったあとを評価してやらなくちゃいけない。そもそも、変わらない人間はばかだ。

 パコのかかえる症状は、パコに変わることを許さない。そして彼女とは違って、大貫はその気になれば変わることができる。大貫の改心、彼の流した涙は、その事実を踏まえたうえで、はじめて純粋な感動となって読者に届く。

 本書はその後、大貫を中心にしてパコのために演劇をやろう、という話になるが、本書の物語は、もともとは舞台の脚本をもとに、小説として再構成されたものだという。そう言われれば、たしかに登場人物たちは演劇向けの、大袈裟なまでに濃いキャラクターであると妙に納得してしまった。はたして、パコがいつも読んでいる絵本がもたらす魔法とはどのようなものであるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.11.03)

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