【新潮社】
『世界の果てのビートルズ』

ミカエル・ニエミ著/岩本正恵訳 



 人は基本的に主観の生き物であるが、それでも私たちが想像力をめぐらせて、ある程度は他人の気持ちを察したり、自分自身を客観的な視点から眺めたりできるようになるのは、私たちのなかの世界が成長とともに大きく広がっていき、それとともに自分以外の多くの人たちと接する機会が増えてくるからに他ならない。これは私自身にも経験のあることだが、子どもの頃の世界というのは、ごく狭い範囲に限られている。それはたとえば家の中であったり、自分の家のごく周囲であったり、自分の住む町であったりするのだが、そこから先にあるはずの世界について、子どもたちの思考はなかなかまぎれもない現実――自分たちの存在と同じレベルのものとして結びつけることができない。だから、たとえば幼いころに一度だけ海外旅行連れていかれたとしても、その記憶はひとつの過去としてよりも、むしろ夢のなかの出来事、現実と幻想の境界がかぎりなく曖昧な状態として成立していることが多い。

 むろん、私を含めた大人たちだって、遠い外国の世界を自身の日々の生活と同レベルのものとして認識することができているわけではないが、少なくとも私たちは、そうした世界の情報を集め、想像力を駆使して自分の世界のこととして考えることはできる。だが、子どもというのは良くも悪くも自分が世界の中心だ。それは、あるいは自分と他者との区別が未成熟だからこそのものかもしれないが、ともあれ子どもたちの思考は、ときに容易に現実と仮想の世界の境界線を跳び越えていく。今の私たちはすっかり忘れてしまっているが、子どもたちにとってそれが現実か幻想か、という区別は、じつはたいした意味をなさないものであるのかもしれない。

 本書『世界の果てのピートルズ』は、邦題にこそ「ビートルズ」という名前が冠されてはいるが、世界中を席巻したロックバンドであり、ポピュラー音楽の流れを大きく変えた、知らぬ者のいないあの「ビートルズ」としての要素は、じつのところ本書の登場人物たちが音楽、それもロックバンドに目覚めるきっかけとして機能しているにすぎず、たとえば空気銃での戦争ごっこであるとか、女の子へのちょっかいとか、あるいはグループどうしのしょうもない抗争とかいった、少年時代によくありがちな、ごく一時期に夢中になってしまうさまざまな事柄と同じレベルとしての扱いでしかない。そういう意味で、本書の中心はむしろ「世界の果て」という部分であり、原題でいうところのvittula、語り手が住んでいる地区の名前である「ヴィットライェンケ」であり、フィンランド語で「おまんこの沼」という意味のことであり、そしてスウェーデンとフィンランドの国境にある、北極圏内の生まれ故郷パヤラ村で、板を使った手作りギターを手に、およそ秩序とは無縁のハチャメチャなバンドのものまねをはじめた少年たちのことである。

 私たちが現実のものとして知るビートルズの音楽と、本書のなかで語り手であるマティーアスとその友人らが、いとこのひとりが持ってきたレコードを聴いて感銘し、バンドを結成して演奏したビートルズの音楽とでは、当然のことながらその質は大きく異なっている。とくに、エレキギターの代わりに手作り板ギターではじめたその演奏は、客観的に見るなら演奏にすらなっていない。それが何かと問われれば、少年が陥りがちな妄想という他にないものであるが、そのある種の滑稽な妄想が、リアルな現実とまったく区別されることなくひとつの物語として結びつき、展開されているというのが、本書の大きな特長のひとつである。

 たとえば、本書冒頭において、すでに大人になっているであろうマティーアスは、いきなりネパールのトロン峠――海抜五千四百十六メートルの頂を征服しているのだが、なぜかそこにあるチベット語の書かれた鉄の板に口づけをして、そのせいで唇と舌の先がそこにくっついて離れなくなってしまう。さんざん苦労したあげく、彼は自分の小便をカップに溜めて、その熱でようやく唇を引き剥がすことに成功するのだが、はたから見て滑稽極まりないにもかかわらず、当の本人にとっては至極真面目で深刻な出来事である、というこの構図は、本書全体を通じて貫かれているものでもある。

 あるいは、マティーアスが暮らすパヤラ村にはじめて舗装道路ができたというエピソード。口数の極端に少ないニイラと知り合った彼は、唐突に止まっていたバスにこっそり乗り込んで空港までいき、飛行機に乗ってフランクフルトまで来てしまうのだが、本来であれば大騒ぎになるであろうこのエピソードが、じつにあっさりと書かれているがゆえに、私たちはそれが本当にあったことなのか、それとも語り手の妄想の産物なのかを判断することができない。だが、少なくとも舗装道路がはじめてできたというエピソードが、幼いマティーアスの心に尋常でない衝撃をあたえたこと――それこそ、この舗装された道をずっとたどっていけば、中国にだってたどりつくことができるはずだ、という強い印象をもたらすほどのものであったことは、読者にも充分伝わるのだ。

 そう、本書において重要なのは、それがあくまで子どもの視点からとらえられたひとつの世界を描いている、ということであり、そこに現実と幻想の違いなど、さほど大きな意味などない、という点で、このうえなく純粋な世界を構築している。そしてそうしたある種の子どもっぽさは、じつは語り手やその友人だけでなく、大人や老人もふくめたその地方の一族全体にまで浸透している。力強くて勤勉で、慎み深い労働者であるパヤラ村の一族――彼らはときに、自分たちの一族の偉大さを誇るさまざまなエピソードを語るが、いずれも現実にはありえない壮大なホラ話と言われても仕方のないものであったりする。だが北極圏という、私たちには想像することも難しいような、まさに「世界の果て」の過酷な自然のなかで生きてきた彼らの、そうした伝統を語り継いでいくことが誇りであり、また生きるための知恵でもあると考えることもできるのだ。

 こうした辺境の地に生きる一族のつながり、歴史やそのしがらみという意味では、アリステア・マクラウドの『彼方なる歌に耳を澄ませよ』に代表される、カナダのケープ・ブレトン島の赤毛の一族を描いた物語を思い起こすものがあるのだが、スウェーデンにありながらフィンランド語の方言を話し、スウェーデンには「たまたまくっついているだけ」であって、自分たちがスウェーデン人とはとても思えないと語る主人公たちの世界が、けっして重々しい雰囲気にならないのは、自分たちがどこの一族であるとか、どこの国に属しているとかいった事柄から自由であり、まぎれもない自分自身を、まさに自分なりのやり方で築いていけるという、少年であるがゆえの視点を強調しているからだと言える。友人の祖母の死から引き起こされる遺産相続をめぐるいざこざ、父から教えられたある一族との長い確執など、現実的にはどろどろの人間関係になりそうな展開が、本書のなかにはいくつも出てくるが、いずれもどこかユーモラスな印象をもたらすのも、本書のそうしたスタンス――現実と幻想が容易に混じりあい、その境目がかぎりなく曖昧な本書のスタンスゆえのものである。

 そう、力強さを誇るがゆえに、ひんぱんに暴力が吹き荒れる彼らの世界は、だからこそ物事が単純に片付いてしまうのだ。だがその単純さは、けっして浅はかというわけではなく、むしろそうやって生きてきた一族だからこそ持ちえる素朴な強さでもある。そしてその強さは、語り手たちのなかで「ロックンロール・ミュージック」という形となって噴出する。自分たちの一族のつながりを、真っ向から拒否するわけではない。それはすでに、生きる術というなかばあたり前のものとして、彼らのなかにあるものだ。数多くの現実と幻想が入り混じったようなエピソードに彩られた、世界の果てでへたくそなロックを奏でた少年たちの、どこか懐かしさを感じさせる物語を、ぜひとも堪能してもらいたい。(2008.06.07)

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