【幻冬舎】
『君は小人プロレスを見たか』

高部雨市著 



 残念ながら、私はこれまで「小人プロレス」というものを生で観たことはない。また今後、その様子を録画でも何でもいい、この目で観ることは、おそらく難しいだろう、という思いも強い。だが、いわゆる小人症と呼ばれる人たちが、この世界にたしかに存在するという厳然たる事実を知ったのは、じつはそんなに最近のことではない。私がまだ小学生くらいの頃に、毎週欠かさず観ていたドリフターズの「8時だヨ! 全員集合」のなかで、彼らはたしかにその舞台を走りまわっていたのだ。

 人によっては下品だとか、教育上よくないとか言う人もいるかもしれないが、私はドリフターズのコントがこの上なく好きだ。なぜなら、彼らの笑いはあくまで自分たち自身を笑い者にすることで巻き起こる笑いであるからだ。彼らの体を張ったパフォーマンス的コントは、笑いの対象を自分たちに向けており、それゆえに観る者を健全な笑いに誘う力に満ちていた。それは、今メディアで主流となっているような、他人をバカにして笑いをとるような、暴力的な笑いとはあきらかに一線を画するものだった。そんなドリフターズが、自分たちのコントの一部として小人プロレスの人たちを登場させたのは、あるいは自分たちの身体的欠陥をあえて逆手にとり、プロレスというスポーツを通して強烈な自己主張をつづけてきた彼らの心と、どこかで通じ合うものを感じたからではないか、と本書『君は小人プロレスを見たか』を読み終えて、私はふと思うのである。

 小人プロレス、と聞いて、あなたはいったい何を想像するだろうか。本書はかつて、全日本女子プロレスの余興的存在でありながら、女子プロレス以上の人気を誇り、子供も大人も顔をくしゃくしゃにして笑い転げさせた、小人症の人たちのみで行なわれたプロレス――しかし現在、一般大衆という名の「普通の人たち」が勝手に思いこんでいる良識という名のエゴによって、社会から抹殺されようとしている小人プロレスの行方を追いつづけてきた著者のルポルタージュであり、そんな彼らの存在をタブー視し、腫れ物であるかのように触れることを拒んでいる社会に対する憤りを示した奮闘記でもある。

 本書は基本的に、小人症の人たち、かつて小人プロレスで活躍しながら、しかしその無理な運動がたたってリングを降りざるを得なかったミスター・ポーンや隼大五郎、天草海坊主といった人たちや、一九六〇年代はじめに放送された『てなもんや三度笠』に出演していた白木みつる、また日本の小人症のひとたちのための団体であるJLP(ジャパン・リトル・ピープル)を運営しているラスク夫妻たちのインタビューの様子を描いたものだ。彼らの言葉をできるだけ正確に書き記そうとするためか、文法的に多少おかしな部分があっても、あえてそのまま載せている点など、著者の彼らに対する真摯な姿勢をうかがうことのできる本書であるが、何より彼らに対する思い入れの強さを感じさせるのは、彼らのインタビューをはじめる前に、まず自分自身のなかに巣食っている、異形の者たちに対する無意識の差別を見つめ、それを自らの問題として真正面から向き合おうとしている点であろう。

 自分が一卵性双生児でもある著者は、それゆえに自分が周囲から特別な目で見られる対象でありながら、同時に朝鮮人への差別意識を抱えていたという、屈折した少年時代を過ごしてきたと語る。中学や高校で出会った朝鮮在籍の人たちのほとんどは日本人としての姓名を名乗ることで、自分たちの在籍をひた隠しにし、また自身も双子であるという事実を隠蔽したいと思っていた。だがなかには、自分から進んでマイノリティーであることを宣言し、むしろそれを武器にして生きていこうとする人たちもいた。なぜ、彼らは自分たちの忌むべき本質をさらけ出そうとするのか、そして双子として生まれた自分自身は、いったい何なのか――そこに、あくまでプロレスラーとして自らの鍛えられた肉体をさらし、自分たちの仕事に最大の誇りとプライドをもって挑んできた小人プロレスの人たちの姿が重なるとき、私たちは自分たちのなかにも存在する、人間として誰かを差別せずにはいられない弱い心を、自分が普通であることを何の違和感もなく受け入れてしまっている歪んだ自分の姿を垣間見ることになる。

 本書は語る。体に障害のある人たちをテレビに出演させ、一般市民の笑い者としてさらけだすのは可愛そうだ、という怒りの投書が、じつは醜い物を見たくないという健常者の、マジョリティーであるがゆえのエゴにすぎないのだ、ということを。それがけっして、私たちにとっても無関係ではありえない、あってはならないことなのだ、ということを知らせるのに、何もこんな説明的な文章は必要ない。ミスター・ポーンの、隼大五郎の、天草海坊主の、小人プロレスであった頃の自分を語るときの、生き生きとした言葉が饒舌にそのことを物語っている。彼らは見られること、笑い者になることを喜ぶショーマンとして、そしてそのために自分たちの体を鍛え、技を磨くことを惜しまないプロのスポーツマンとして、そして健常者たちの「大きな世界」の侵略に敢然と立ち向かっていった戦士として、誇りを持って大衆の前に立っていたのである。

 大きな世界で生きている僕らは、小さな世界で生きている人びとの日常をあまりに知らな過ぎる。そしてその無知なうえの、手前勝手な良識というものが、人の心をキズつける。僕らは彼らの日常を知って考えるのである。自動切符販売機のコイン投入口は高過ぎないかと、ワンマンバスの押しボタンに彼らの指は届くのかと。

 わからないこと、知らないことをわからないまま、自分勝手に解釈してしまう健常者の高慢なエゴによって、小人プロレスが社会から抹殺されようとしている事実、それが二十一世紀を迎えようとしているこの世界の正しい姿なのか、という怒り、自分が五体満足であることの優越感と負い目、そうした感情に揺れながらも、小人プロレスの人たちを追いつづけてきた著者のこの仕事は、もっと評価されるべきではないだろうか、そして私たちはもっと、小人症の人たち、障害者の人たちと触れ合う機会があってもいいのではないかと思わずにいられない。

 私が「8時だヨ! 全員集合」のなかではじめて小人症の人たちを見てから、十数年の歳月が流れた。そのあいだに彼らの姿がブラウン管から消え、私もいつのまにか、彼らのことをすっかり忘れて生きてきた。だが、彼らはけっしてこの世界から消滅したわけではない。ますますひどくなってきた社会の良識という名のエゴが、彼らの姿をひた隠しにしつづけているだけのことなのだ。そのような事実に対して、あなたはいったい何を思うのだろうか。(2000.11.12)

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