【新潮社】
『インディヴィジュアル・プロジェクション』

阿部和重著 



 あるいは、私たちはもっと訓練を積むべきなのかも知れない。世の中に溢れかえっている種々雑多な情報の中から本当に価値のあるものだけを選びとるための訓練を、そして、多様化していく価値観と、猛烈な勢いで変化していく事物のただなかにあって、確固とした自分自身を保ちつづけていくための訓練を。そうすれば、少なくとも小説という表現形式で書かれたものに対して、私たちはもっと慎重な.態度で臨むことができるのかもしれない。文字という、不完全な道具のみを使ってすべてを表現しようとする小説――そこに書かれたことのどこまでが真実で、どこまでが虚構なのか、確かめる方法がない以上、うかつにその内容を信じ込んでしまうのは、非常に危険な行為であるからだ。

 本書『インディヴィジュアル・プロジェクション』は、オヌマという男によって書かれた四ヶ月間の日記、という視点が中心となって物語が進んでいく。かつて、映画専門学校の生徒だった頃、仲間とともに卒業製作実習のネタとして取材した、オヌマの郷里にある「高踏塾」――そこは、マサキという正体不明の男によって運営されている、護身術や探偵術などを教える私塾であった。学校を卒業後もその塾で訓練を受けることを決意したオヌマたちだったが、ある事件がきっかけでマサキが警察に逮捕されてから、塾のメンバーは残留組と離反組に分裂、オヌマは離反組として東京に戻り、廃館寸前の映画館の映写技師として働いていた。だが、同じく「高踏塾」を離反したメンバーの四人が交通事故死したという事故を目にしたオヌマは、いよいよ来るべきものが来たことを察知する。

 はたして、四人のメンバーを事故に見せかけて殺したのは、塾の残留組の仕業か、あるいはかつて敵対したヤクザの一味なのか? 離反組のひとりであるイノウエが持ってきた三五ミリフィルムに隠された秘密とは何か? 獄中のマサキの不可解な死、謎のアルバイター、カヤマの存在、そして行方がわからなくなっているプルトニウム――さまざまな興味をそそる謎をはらみながらも、しかし物語は徐々に奇妙なズレを露呈しはじめてくる。その奇妙なズレの真の意味に気がついたとき、懸命な読者はあらためて立ちかえることになるだろう。本書が、日記形式で書かれた一人称小説である、という事実に。

 日記という形式を利用してひとつの小説を書く、というのは、おそらくそれほど目新しいことではないだろう。だが、ここで私たちが気をつけなければならないのは、日記そのものと、日記形式で書かれた小説とは、似て異なるものである、というあたりまえの事実なのだ。日記とは、一種の記録である。記録である以上、そこに嘘が混じることはほとんどありえないと考えていいだろう。だが、日記が持つそのような性質を、そのまま本書にもあてはめるのは、非常に危険なことである。そう、本書に書かれているオヌマの記録のなかに、もしかしたら虚構が混じっているかもしれない、という疑問――だが、一度何かを疑ってしまうと、最終的にはオヌマの記録そのものが、いや、そもそもオヌマという人物すら虚構なのではないか、ということになってしまう。もちろん、小説の世界があくまで虚構であるという事実は変わらないのだが、それでも小説は、虚構の中から現実とは別の次元の現実を生み出すものであるはずだ。

 小説がもつある種の現実性――リアリティーそのものを拒否しかねない本書の斬新さは、これまでの小説にはなかったものである。

 映写技師であるオヌマは、フィルムが切れればいったん映写機を停止させ、傷んだ箇所を切り取って接合する、という作業をしばしばおこなうが、そのときにある細工を施す。

 フィルム切れが生じて接合するときに、別の映画のフィルムから切りとった三コマを付け加えて上映を再開するのである。以後、その映画はぼくの作品となるわけだ。つまり『東京物語』なら、『東京物語・オヌマ・バージョン』となる――(中略)――密かに挿入されたたった三コマの映像など、よっぽど気をつけて見なければ、知覚するのは極めて難しい。違和感くらいなら感じとっているのかもしれないが。

 私たちが現在生きているこの世界は、けっきょくのところ、あちこちが切り取られた不完全版を、それぞれがそれぞれの価値観にもとづいて接合した、それぞれにとっての「オリジナル・バージョン」でしかない。とするなら、唯一の真実など、虚構そのものでもある小説のなかに求めること自体が間違いなのかもしれない。私たちは、もっと小説に対して、そして現実の世界に対しても、もっと慎重に構えるべきなのかもしれない。戦争状態になっているのは、何も渋谷ばかりではないのだ。(1999.10.10)

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