【徳間書店】
『花咲家の人々』

村山早紀著 



「囚人のジレンマ」という概念がある。有名なのは、ある犯罪を行なった犯人ふたりを自白させるため、以下のような条件をつけた場合、犯人は「協調」より「裏切り」を選んでしまうというものだ。

・ふたりとも黙秘すれば、ふたりとも懲役二年。
・どちらかひとりが自白すれば、自白した方は無罪。ただしもうひとりは懲役十年。
・ふたりとも自白した場合、ふたりとも懲役五年。

 私がはじめてこの言葉を知ったときは、ふたりに与えられるのは「懲役」ではなく「現金」だったのだが、自分の利益のみを追求するかぎりにおいて、囚人は互いに裏切りを選んでしまうという結果に、少なからずショックを受けたことをおぼえている。ふたりとも裏切れば懲役五年、これは、ふたりとも黙秘した場合の懲役二年より不利益になるにもかかわらず、それでも人は人を裏切ってしまうという結果は、まるでこの人間社会で生きるうえで、裏切りこそが人の本性だと宣言されているような気がしたからである。

 だが、この「囚人のジレンマ」にはつづきがあった。上記の結果になるのは、それが一度かぎりのときであって、もし何度でも選択可能な状況だった場合、人は裏切りではなく協調を選ぶようになっていく、というものである。これは実験によっても明らかにされていることで、「現金」による「囚人のジレンマ」を無限につづけていくと、最終的にもっとも利益をあげるのは、「相手が裏切らないかぎり、協調を選ぶ」という選択肢を続けた組だったということである。

 裏切りという行為は、その場その場においては、裏切った人間のほうが得をしているように思えるが、より長期的なスパン――たとえば、人生全般で物事をとらえたとき、裏切りは結果的にその人に損をさせることになることを、「囚人のジレンマ」は暴いてみせたことになる。もちろん、そこには個々の利益の追求という、きわめて自己中心的な思惑があったのかもしれないが、それでもなお、人は人と協調して生きていかなければならない、そうでなければ生きられないという、人としてあたり前のあり方がたしかにある。それはある意味、人間のもつ「やさしさ」に通じるものがあるのではないか、とさえ思ってしまうのだ。とくに、今回紹介する本書『花咲家の人々』を読み終えたあとでは、なおのことである。

 植物たちがひとや動物を想う気持ちは、妖精のように透明で、幼子のように無邪気でした。ただ命の幸せを想い、楽しそうにしている命のそばに在ることを喜びとする魂だから、草や木は、手折られ食べられても文句一ついわないのです。

(『黄昏時に花束を』より)

 架空の街である風早を舞台に、四つの短編によって構成されている本書には、そのタイトルにもある「花咲」の苗字をもつ一族が登場する。花咲家は戦前からつづく由緒ある花屋「千草苑」を経営してきた一族で、店舗は戦争によって一度焼けてしまったものの、元の和洋折衷の洋館を建て直し、以前ほどではないものの、カフェなどを併設しながらも花屋をつづけている、という設定となっている。長女で「カフェ千草」を切り盛りする、お母さん代わりの茉莉亜、次女で勝気な高校生のりら子、気の弱い読書好きな末の弟、桂。そしてそんな三人の父親で、風早植物園の広報部長でもある草太郎と、造園家であり、植物の病気も治せる祖父の木太郎の五人が、言ってみれば物語の中心となっているのだが、じつはこの花咲家の人々は、その一族特有の能力を受け継いでいる。それは、草木の声を聞くことができたり、その力を少しだけ借りることができたりという、植物とのつながりにかんするものであるのだが、こうした「魔法」のような力が、物語のなかでどのように定義されているのかが、本書を大きく特長づけているのは間違いない。

 ふつうの人にはない異能の力というと、何か能力バトルめいた展開を想像するかもしれないが、本書における花咲家の力をひと言で言い表すならば、それは「やさしさ」である。何より、彼らが触れることになる植物たちの存在が、上述の引用にもあるとおり、命あるモノに対してこのうえなくやさしい。そしてそんな彼らをとりまく風早の街が、彼らのちょっと不思議な力について、「伝説」や「魔法」といった言葉で受け入れ、むしろそうしたことを楽しむような雰囲気さえある場所として描かれている。

 何か不思議な力があると言い伝えられている、花咲家の人々――しかし平成の世において、それはもはや都市伝説のようなものと化しつつあるという、「非現実」に対する距離感がじつに絶妙な本書に登場する花咲家の人たちは、物語のなかでたしかにその能力を行使することになるし、またその力の使い道が本書を評する大きな鍵にもなるのだが、彼らはその力が植物たちからの「借り物」であることをよく心得ている。そう、それはまさに英語で「才能」を意味する「gift」、つまりは贈り物であり、だからこそ彼らはその力を、自分以外の誰かのために発揮する。そしてそれは、いつも植物の素朴な「やさしさ」に触れて生きている彼らにとって、ごく自然のことでもあるのだ。一族のなかでは現実主義者であり、自分のこの力もいずれ科学で説明がつくようになると信じている次女のりら子ですら、この力で金儲けをしてやろうといった考えにまったく及ばないところに、そうした一族の「やさしさ」がにじみ出ている。

 身のまわりにある草や花たちが、命あるものたちの幸せを願っている――本書最大の謎は、花咲家の人々の異能の力などではなく、むしろ植物たちのそんな気持ちのほうではないか、とふと思ってしまう。私たちは、自然のサイクルからはずれた生き物であること、そして自分たちの都合で自然を切り崩し、搾取しつづける存在であることを知っている。私たちは、植物に対してけっしてやさしくはない。にもかかわらず、植物たちが人間に対して、そんな無邪気に好意を寄せるものなのか、という疑問が、じつは本書を読んでいてずっと頭にひっかかっていた。

 だが同時に、それは私が「人間」という領域でしかものを見ていない、人間であるが故の偏見にすぎないことに気づかされた。植物たちはきっと、人間もふくむあらゆる「命」にたいして、このうえなく優しいだけなのだ。その単純ではあるが、それゆえに心強い力――そしてそんな力をほんの少しだけ借りることができる花咲家の人たちの、非日常的な日常の物語、それこそが本書の本質だと言うことができる。

 花や木は、みんな命が好きです。無邪気に、まるで子犬や子猫がひとに懐くように、地上のすべての生き物の命を好きだと思い、そばにいることを楽しみ、そして、お母さんのような優しい気持ちで、すべての生命を見守っている。――(中略)――何度も地上に芽吹き、生まれてきては、地上の生命たちを見守り、愛し続けます。

(『十年めのクリスマスローズ』より)

 世界は多くの死に満ちている。かけがえのない人の死は、どうしたって悲しい。だが同時に、世界は多くの生にも満ちている。枯れては芽吹き、またきれいな花を咲かせる植物のように、そうした生と死の無限につづく連鎖、受け継がれている命のリレーは、じつはこのうえなく荘厳で、このうえなく美しいものでもある。そんな美しい命が私たち人間のために、ほんの少しだけ見せてくれる「奇跡」の形を、ぜひたしかめてもらいたい。(2014.10.22)

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