【光文社】
『ドリアン・グレイの肖像』

オスカー・ワイルド著/仁木めぐみ訳 



「なんと悲しいことなんだ! 僕は歳を取っていく。そしておそろしく醜い姿になっていく。この絵は若さを失わない。――(中略)――これが反対だったらいいのに! いつまでも若さを失わないのが僕のほうで、この絵が老いていけばいいのに! ――」

 今回紹介する本書『ドリアン・グレイの肖像』は、その全体をとらえるならば、多分に寓話的な要素を見出すことができる。その溢れんばかりの美貌と純真さで人を魅了せずにはいられない青年ドリアン・グレイを描いた肖像画――彼の強烈な美貌に影響され、芸術家としての才能をおおいに刺激された画家バジル・ホールワードが、自身の魂を塗りこむようにして描いた美しい肖像画を見たときにドリアンの発したのが上述のセリフであるが、物語を読み進めていくと、彼をして「魂だって差し出す」と言わしめたその心の叫びがなぜか現実のものとなっていることに気づく。そう、ドリアン自身のその若さと美しさは変わらなくなり、代わりに肖像画のほうがその醜さを引き受けるという逆転現象が起こっているのだ。ただし、肖像画が負うことになった醜さは、たんに年月によって衰えていく若さや美貌という肉体的なものばかりでなく、精神的な醜さ――残酷さや狡猾さ、犯した罪からにじみ出る醜悪さといったものをも含んでいるという点が本書の大きな特長のひとつであり、ドリアン自身がその絵の変化に気づくことになったのも、彼がある女俳優に対しておこなった残酷な仕打ちがきっかけとなっている。

 心のなかにどれだけ腹黒く醜悪なことを抱え、またどれだけ他人を辱め、その人生を狂わせるような事態を引き起こしても、まるで天使を思わせるようなドリアンの美貌はまったく衰えることがない、という本書の設定は、当然のことながら人間の表面に表われてくる美しさというものが、見た目よりもむしろその内面からにじみ出てくるものを反映しているという前提があってのものであるが、このきわめて寓話的な本書を評するにあたって、そもそも「美」とは何なのかという命題を避けることはできない。そしてそのさいの鍵となる登場人物が、ドリアンを堕落させるきっかけとなったヘンリー・ウォットン卿である。

 肉体はひとたびその罪を犯してしまえば、もうその罪とは縁をきることができる。行動によって人は浄化されるからだ。あとに残るのは、快楽の記憶と悔恨という贅沢だけだ。誘惑を退けるには、それに身を任せるしかない。

 清貧や道徳といった概念を否定し、心の内から湧きあがる情熱や衝動、つまり人間の欲望のままに行動することを良しとする快楽主義者として登場するヘンリー卿にとって、美しいものはそうした欲望を呼び起こす源泉であるという認識がある。だからこそ彼は何より美しいもの、とりわけ人間の美貌の源である若さを愛するのだが、そこにはある種の倒錯がある。それは、ドリアンの美のもともとの本質が、純真無垢という部分によって成り立っているものであるというものだ。少なくともバジルが出会い、肖像画のモデルとして依頼した頃のドリアンはそうだった。

 たとえるなら、自然のなかで咲く花について、それを美しいと感じるのは人間だけであって、花自身は自分の美しさになど頓着しない。それらにとって重要なのは、いかにして自身の種を存続させていくかという生物的戦略だけであり、人間の感覚がとらえるところの「美」もまた、そのための手段にすぎない。これがもし人間の美を意識することになったとしたら、そこには少なからず人間に対する「媚」が生まれてくることになる。同じ花でも、人間の手によって何世代にもわたる交配や品種改良を経て生み出されてきた花は、たしかに艶やかで美しいのだが、ひとつの生物としての美しさという意味では、それだけではどこか歪んだものを感じてしまう。それは、人工物であるがゆえの「媚」があるからに他ならない。

 物語の最初のほうでは、ドリアンは自分のもっている美しさについて意識していない。まさに純真無垢であるがゆえの「美」をもつ者としてのドリアン・グレイがそこにはいた。しかしながら、ヘンリー卿はそんなドリアンに、自分の美しさを自覚させる言葉をかけ、その美貌が若さという、儚い期間によってしか保たれないことを嘆いてみせた。そしてそのヘンリー卿の言葉は、奇しくもバジルが描いた肖像画の魅力によって裏づけされてしまう。この書評の冒頭に挙げた引用は、自身の「美」を自覚してしまったドリアンが、まさにその自覚によって本来もっていたはずの純真無垢の「美」を失ってしまった瞬間だと言うことができる。

 慈善事業といった利他主義に献身するくらいなら、その芸術的な美しさが保たれている若い時期にしか感じられない快楽に身をゆだねるべきだというヘンリー卿の主義は、その正しさはともかくとして首尾一貫した哲学然としたものがあり、それゆえにどこか魅せられてしまうようなところがたしかにある。だが、まさに肖像画のごとき変わらない若さと美貌をもつに到ったドリアンにとって、その主義はひたすら自己正当化のための手段にすぎなくなってしまう。自分の美を引き立てるために他人を犠牲にするという悪に染まりつつも、ただ堕落していくだけの魂の影響をまったく受けない天使のようなドリアン――だが彼の肖像画は、その堕落を忠実に受け止め、その本来の醜い姿へと少しずつ変貌しつづけていく。この両者のアンバランスが、はたしてどの時点で崩れてしまうのかというある種の緊張感が、本書を読み進めていく原動力のひとつとなっているのは間違いない。

 人類の歴史に目を向けたときに、それが常により良い方向に進んできたはずだという認識がいかに自分勝手で傲慢なものであるのかは、かつての西欧諸国が新大陸の文化をかつての自分たちが通過してきたもの、つまり自分たちよりも劣ったものであるという認識のもと、植民地化を正当化していったことを考えれば容易に理解できることである。私たちの人生についても、とくに若さという要素をとらえるなら、長く生きれば生きるほど失われていくものであり、より良い方向というよりも、より悪い方向に向かっていることになってしまう。だが、それがきわめて偏ったものの見方であるという認識にさえ立つことができるのであれば、歳を取るということ、老いるということの別の意味を見出すことができたのかもしれない。純真さという「美」を強引にとどめることになったひとりの人間がたどることになる人生が、いったいどのような色彩を帯びることになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2012.12.10)

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