【新潮社】
『オーデュボンの祈り』

伊坂幸太郎著 



 人から何かを期待される、というのはけっして悪い気分ではない。人は、自分がこの世に生を受けたという事実に対して、常に何らかの理由づけをせずにはいられない生き物であり、「自分が誰かから期待されている」という思いは、少なからずその人の生きる原動力となるからである。だが、かといってあまりに過剰な期待をかけられることは、ときに押しつぶされてしまいそうなほどの重荷となり、かえって生きる力をそいでしまう結果になりかねないこともある。

 ミステリにおける「名探偵」とは、彼がかかわることになる事件を推理し、犯人を探し出すことを運命づけられた者である。ふだん、私たちがミステリを読むとき、名探偵とともに作品が提示する事件の謎に挑戦し、彼が物語の最後に展開する論理的推理によって、言わば答え合わせをする、という形となるものがほとんどだ。私も何度かその謎を独力で解き明かそうとしたことがあったが、けっきょくは「名探偵」による推理をアテにしてしまうことになってしまった。私たち読者の立場からすれば、別に私たちがわざわざ犯人当てをしなくとも、「名探偵」が代わりに犯人を推理してくれる、という意識はどこかにあるはずである。しかも、「名探偵」はけっして推理を外さない。彼は物語のなかでかならず正しい答えを導きだし、一度出された推理は、たとえそれがどれだけ荒唐無稽なものであっても真実と見なされてしまう。それゆえに、物語のなかにおける「名探偵」というのは、人間でありながら人間以上の役割を与えられた、悪く言えば人間としてのリアリティに欠ける存在としてとらえられることが多いのも事実だ。

 もちろん、物語という虚構のなかで生きる「名探偵」は、あくまで自分が私たちと同じ人間だと思っているし、自分の推理が必然的に事件の真理をつくことになる、などとは夢にも思っていない。だが、もし彼が、作者によって与えられた「名探偵」という役割に気がついたとしたら、はたしてどうなるのだろうか? 本書『オーデュボンの祈り』は、言ってみれば「名探偵」が「名探偵」であることをやめることからはじまったミステリだということになるだろう。

 舞台となるのは荻島と呼ばれる小さな孤島だ。ごく一部の例外を除いて、150年ものあいだ、外界との交流のいっさいを絶った、孤立した小さな閉鎖社会である。物語は、主人公の「僕」こと伊藤がこの荻島にあるアパートの一室で目覚めるところからはじまる。5年間勤めてきたソフトウェア会社をやめ、仕事一筋に生きる恋人とも別れてしまった彼は、ヤケを起こしてコンビニエンスストア強盗未遂をしでかしたあげく、本土では警察に追われる身となっていた。いったい、何のために自分はこの島に連れてこられたのか――日比野と名乗る男の案内で島の様子をいろいろ見てまわった伊藤は、そこで優午と出会うことになる。150年前につくられ、この世のあらゆる情報を知り、そして未来のことさえ見通す力をもつ優午は、人間の言葉を話す「生きたカカシ」として、島の人々から崇められていた……。

 伊藤自身が本書のなかでも指摘するように、どこかリアリティに欠けるところのある荻島の世界は、たとえば村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる、自分の影を捨てて入る「世界の終り」のように、どこかしらおとぎ話めいた雰囲気をもっている。べつに日本語が通じないわけでもなく、また本土と比べて人々の生活水準が著しく低いというわけでもないのだが、どこか非現実的なのだ。反対のことしか喋らない変人画家、あまりに太りすぎたために、そこから一歩も動くことができなくなった市場の女性、島で唯一、人を殺すことを認められている、本を読んでばかりいる青年――だが、何よりもっとも荒唐無稽で印象的なのが、「生きたカカシ」である優午の存在だろう。しかも、優午は伊藤が島にやってきた次の日には、何者かの手によって殺されてしまうのである。

 これまで、この島で起こった数々の事件は、すべて優午によって解決されてきた。島の中で――いや、おそらくこの世界でもっとも多くの知識と情報を持ち、先のことを正しく予測することができる彼は、問われれば常に人殺しの主犯を言い当て、行方不明になった人の居場所を告げ、そしてそれはけっして間違えることがなかった。そんな、神ともいうべき力をもった優午が、なぜ自分が殺されるのを予測できなかったのか? しかも、まるでそれを待ち構えていたかのように、伊藤と同じ「外」からきた人間である曽根川が殺されているのが発見される。

 本書を推理小説とみなしたとして、「名探偵」にもっともふさわしいのは、言うまでもなく優午である。だが、優午は事件の初っ端であっさり物語から退場してしまうのだ。「名探偵」が不在のまま進む推理小説――だが、かりに優午が殺されなかったとしたら、はたして次に続く殺人事件はおこっていたのだろうか。

 ああいった話に出てくる探偵たちは事件が起きるのを防ぐためではなく、解き明かすために存在している。彼らは神様の存在と近い。全てを解き明かすのだが、結果的には誰も救わない。

 このあたりのジレンマは、名探偵がいるところで殺人事件が頻発する、しかも、名探偵の知り合いばかりが殺されたり、事件に巻き込まれたりする、という、ちょっと考えればおよそリアリティがあるとは言えないミステリならではの矛盾点にもつながるものだ。そういう意味では、この荻島というファンタジーめいた世界も、そしてすべてを知りながら、自分では何をすることもできないカカシの存在も、非常に象徴的だと言える。だが、それはたんなるアンチミステリ、あるいはミステリのパロディ、という意味ではない。物語におけるすべての謎があきらかになったとき、すべての小さな伏線が――それこそ島民のそれぞれの性癖から、伊藤の元恋人である静香や、小さい頃からの伊藤の知り合いで、およそ人間とは言い難い悪魔的な加虐趣味の持ち主である警察、城山の存在をも利用して、あたかもルイス・サッカーの『穴』のごとく、ひとつの大きな目的に向かって見事に収束していくのをまのあたりにすることになるだろう。そしてその裏に、何者かの小さな意思がはたらいていた、ということも。

「失ったものが戻ったらどうする? どうすりゃいい?」
「何がなんでも失わないようにするしかないだろ」

 本書のタイトルにもなっているオーデュボンとは、17世紀の動物学者で、当時、アメリカ大陸に生息するリョコウバトを発見した人物でもある。かつては二十億という、とてつもない数の群れで何日も空を覆い尽くしたリョコウバトは、そのとてつもない数にもかかわらず、人間の乱獲によって絶滅した。彼はリョコウバトの絶滅を予測した。だが、ついにリョコウバトを絶滅から救うことはできなかった。「オーデュボンの祈り」とは、すべてを知りながらどうすることもできなかった彼が、唯一できたことでもある。

 荻島に住む人間は、誰もが何かの欠けた状態に甘んじて生きている。そして外からやってきた伊藤は常に目の前の困難から逃げてばかりいる人間であり、静香は常に人から必要とされているという思いに飢えているし、城山には「罰されること」が決定的に欠けている。この世には「名探偵」など存在しない。それがまぎれもない現実であるなら、それは私たちにはどうすることもできないことなのだろう。だが、「名探偵」が存在することを許される物語の世界くらい、すべてが丸く収まるような結末を導き出してほしい――私が本書のなかに感じたのは、まさにそんな「祈り」の声である。(2003.05.26)

ホームへ