【河出書房新社】
『親指Pの修行時代』

松浦理英子著 
第33回女流文学賞受賞作 



 人が人を好きになる。自分がどんなにその人のことを愛しているか、どんなにその人のことを大切に思っているか、伝えたいと思う。だが、どんなに言葉を尽くし、態度で表してみせても、その想いが完璧に相手に伝わることはなく、また、自分も完璧にその人のことを理解してあげることはできない。それが、『セバスチャン』や『ナチュラルウーマン』をはじめとする著者の一連の作品の、一貫したテーマだったのではないかと思う。少々乱暴な言い方をすれば、林真理子の『不機嫌な果実』が徹底して性感帯にこだわり、肉体が得る快楽、しいては自分自身の感情の満足を得ようとする話であるのに対し、『親指Pの修行時代』は性感帯から得られる快楽よりもむしろ心の感受性を大事にし、自分だけでなく、いや自分以上に相手の心を満たそうとする話だと言える。

 本書はアブノーマルな性に満ちている。語り手である真野一実の右足の親指がペニス(厳密には違うけど)に変わる、という設定からしてそうだが、彼女以外にも、求められれば男でも女でも性行為をする盲目のピアニストや、性に関する器官に何らかの異常を持つ者たちで構成される見世物一座<フラワー・ショー>の存在など、刺激的な素材があちこちにちりばめられている。もちろん、男女のからみもあるし、女同士のからみもある。そもそも、排泄機能のないペニスに変化した右足の親指が何に使われるのか、ということを考えれば当然の帰結なのだが、そこらへんのポルノ小説に書かれるアブノーマルな性行為がほとんど興味本位か、読者サービス程度のものでしかないのに対して、本書では一実という語り手を通して、アブノーマルな性を真摯な態度で受け止めようとする。そこには恥じらいも照れくささもない。一実はアブノーマルな性を持つ人たちと接することで、人が人を好きになるということについて、そして性行為そのものについて、真剣に考え、思い悩む。一般社会ではできるだけ避けようとする問題であるからこそ、彼女のまっすぐな想いは読者の心を強く打つ。そして、常にその中心にいるのは、親指ペニスだ。

 男と女がどのような心理的経緯を経て性行為へ進むのか、性行為に際してどのような愛戯を交わし、最大の愉悦をもたらす性器結合に至るのか、といった事柄について、私は実際の経験以前から一定のイメージを抱いていた。(中略)イメージに頼る分、私は自分自身の感受性を開放していなかったのだ。

 <フラワー・ショー>の一員である映子に触られて、思いがけず勃起してしまう親指ペニスに当惑しながらも、映子のことが好きなのだ、という自分の気持ちを偽ることをやめたとき、一実は自分の恋愛感が、テレビや映画や読み物などが垂れ流す情報にいかに影響されていたか、という事実に思い至る。一実にとって親指ペニスは、たんなる性感帯ではなく、自分の心に正直な反応をしめす器官、自分がこれまで気づかなかった感情を代弁してくれる器官なのである。ペニスに対してここまで重い役割を与えることができるのは、世界を見渡しても松浦理英子ひとりだけではないだろうか。

 自分からは何も得ようとせず、そばにあるもので満足しようとしてきたがために、最愛の友人を永遠に失うことになってしまった一実は、親指ペニスを得ることで、理想の性行為を求めて遍歴することになった。人間は肉体によって精神を縛られた不安定な存在だ。だからこそ、自分の想いを伝え、相手の想いを理解するのに肉体を利用するしかない。『親指Pの修行時代』は、親指ペニスの修行であると同時に、性行為に単なる生殖活動以上の意味を持たせようとする人間という生き物の修行を描いた小説なのである。(1998.12.09)

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