【新潮社】
『ふくろう女の美容室』

テス・ギャラガー著/橋本博美訳 



 新聞記事やテレビのニュースなどに取り上げられる事件というのは、それが多くの人の興味を惹くはずだという取捨選択や、社会的に大きな影響をおよぼすか否かのフィルターを通したうえで、私たちの耳目に届く事件であり、またそのことによって大なり小なりの話題性をもつことにもなるのだが、じっさいには、それ以上の数の記事や事件が新聞社や出版社、テレビ放送局などには集まっているはずである。そしてそれ以上に、おそらく記事やニュースにすらなることのない、きわめて個人的で限定された事件――あるいは出来事と言ったほうがいいだろうささやかな事柄が、じつは私たち個々の生活のなかには満ち溢れている。

 たとえば、誰かと出会って恋をする、あるいは誰かと結婚する、出産、育児、就職や転職、起業、リストラや倒産といった事態、あるいは離婚や死別、隣人や親戚とのトラブルやいざこざは、社会という大きなくくりでとらえたときには、どこにでも起こりうるありふれたことでしかないのだが、そうした出来事に関係した人たちにとっては、まぎれもなく自身の身に起こった出来事であり、それが事件であるという印象をもつかぎりにおいて、間違いなくひとつの「事件」だと言うことができる。この国でも毎日のように人が死んだり生まれたりしていることは事実であるが、個々の人にとってそれはけっして「ありふれた出来事」ではありえないはずなのだ。

 彼が亡くなったとき、この世で二人が育んできた愛は終わってしまったと思っていたけれど、それは間違いだった。むしろ、思いがけない意識が拓けた。自分が以前から大切にしてきた何もかもが、いっそう愛おしく大切に思えるようになったのだ。

(『来る者と去る者』より)

 本書『ふくろう女の美容室』は、表題作をふくむ10の短編と、ふたつのエッセイを収めた作品集となっている。そしてそれぞれの短編に登場する人たちは、いずれも自身の生活において、何らかの問題をかかえている状態にある。それはたとえば『仏のまなざし』における、見知らぬ人からの難癖といった取るに足りない感情の衝突といったものから、『マイガン』における、夫の突然のピストル自殺といったものまで多種多様であるが、重要なのはそうした事件や出来事の顛末そのものではなく、それらの出来事によって心をかき乱された人たちが、そのことをどのように受け止めていくのか、そこから何を見出していこうとするのか、ということだと言える。

 私たち人間は、常に論理的でありたいと望むいっぽうで、感情や一時の衝動に突き動かされずにはいられない部分を持ち合わせてもいる。そしてそうした感情的な一面は、しばしば人を不合理で、ときには不可解でさえある行動へと走らせる。たとえば『石の箱』という短編で、アーレンとエリーダの夫婦が、エリーダの妹ドリーに石の詰まった箱を贈るという印象的なシーンがある。それは言ってみれば、自分勝手に娘をエリーダのもとにあずけたり、何年も経ってから母親面して引き取っていったりするドリーに対するあてつけのようなものであり、そんなことをしたところで何がどう変わるわけでもないのだが、エリーダが子どもの産めない体であること、そしてその理不尽極まりない境遇への感情を必死になって押さえつけ、受け入れていこうとしていることを、彼女のもっとも身近にいるアーレンは誰よりもよく知っている。本来であれば、その箱にはドリーの娘の身のまわりの物を入れてやるべきなのだ。だが、アーレンはそのことをエリーダに伝えることができない。

 このふたりの心の内は、けっして単純な言葉などで置き換えることのできないたぐいのものだ。しかし、本書の著者はそんな彼らの言葉にできない複雑な思い――悔しさや憤り、やるせなさ、哀しさなどが入り混じった気持ちを、ふたりがともに木の箱を石でいっぱいにする作業を描くことで、じつにあっさりと、しかしこれ以上はないという形で表現していく。その言葉を連ねて文章を綴っていくさいの絶妙なバランス感覚は、しばしば詩的なものを感じさせるのだが、本書に収められたふたつのエッセイによれば、著者はもともと詩人だということが書かれており、なるほどと納得したことを覚えている。表題作である『ふくろう女の美容室』は、同じ美容室で客として隣り合った男女が、とりとめのない言葉のやりとりをするという、ただそれだけの話でしかないのだが、それが著者の手で表現されると、とたんに時間や場所の制約を跳び越えて、世界がかぎりなく広がっていくような感覚に襲われることになる。それこそ、目に見えない精霊や、生死といった境界線すら、著者の言葉の前では等しく無力であるかのように。

 給料の未払いがつづくオーナーに対して、伐採現場の元木を切り倒して崩壊させた労働者を書いた『むかし、そんな奴がいた』、死んだ夫に関することで訴訟を起こされた未亡人が、書類をもってきた執行官に対してちょっとした意趣返しをはかる『来る者と去る者』、夫の浮気相手である女からの手紙を見つけてしまい、それをひそかに燃やしつづける妻を描く『祈る女』など、人生における喪失や裏切りといった意想外な出来事に遭遇してしまった登場人物たちは、けっしてその気持ちを表面に出して爆発したり、あたりに撒き散らしたりすることはない。だが、そのことを安易に受け入れることができるほど、何もかもを達観しているわけでもない。彼らのいだく思いは、それなりに長い年月を経たうえで、熟成されてきたものでもあるのだ。

 それゆえに彼らがとってしまう、自分でもきちんと説明のできないような行動は、理屈を超えた衝動の爆発の裏返しでもある。そして後になって、そのときの自分の振り返ったときに、深い喪失とは別の何かがたしかにあったことに、ふと気づく。それは、自分がその無くしたもの、長年かかえていたものを、いかに大切にし、愛してきたかという、自分の気持ちの再認識である。無くしてみて、はじめてその価値に気づくというのは、ありがちなテーマであるかもしれないが、そこにわずかな希望を見出そうとする姿は、読者に静かな感慨をもたらすものでもある。

 産業革命以降の科学技術の発展は、世界の距離を縮めることに成功した。そしてインターネットの発達は、個人が触れることができる情報の量を飛躍的に高めることになった。それは、その人にとって本来遠い世界の出来事であっても、より身近なものとして接することができるという意味では便利ではあるが、同時に個人にとっての「世界」の幅がかぎりなく広がってしまい、自分にとっての本来の周囲が見えにくくなってもいる。誰もがマイケル・ジャクソンやイチローのように、世界的な成功を収められるわけでもないし、また誰もが巨万の富や栄光を勝ち取れるわけではない。だが、自分にとって接することができる世界が広がれば広がるほど、そうした目に見える形でのインパクトばかりが目立ってしまうことになる。本書は、自分の身近にあるささやかなものの本当の価値を、何よりも雄弁に物語っている。(2009.12.26)

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