【新潮社】
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

村上春樹著 



 総体としての人間を単純にタイプファイすることはできないけれど、人間が抱くヴィジョンはおおまかに言ってふたつにわけることができると思う。完全なヴィジョンと限定されたヴィジョンだ。僕はどちらかというと限定的なヴィジョンの中で暮している人間なんだ。

 村上春樹の作品、ことに『神の子どもたちはみな踊る』より前に発表された作品を読んでいて感じるのは、その物語世界の閉鎖性――非常に限定された、ひとつの閉じた世界であり、だからこそその内側で完結した美しさを保っている、というイメージである。今回紹介する本書『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、そうした初期村上ワールドの真骨頂とも言うべき作品であるが、上の引用文における「完全なヴィジョン」「限定されたヴィジョン」という考え方は、そのまま著者の描く作品観にもあてはめることができるものだ。言うまでもなく、著者の世界観は「限定されたヴィジョン」にもとづいたものであるが、それは「限定された」というよりも、むしろ「現実世界とはまったく異なる価値観の上に成り立つヴィジョン」とも言うべきものだろう。となれば、「完全なヴィジョン」とは、私たちが生きるリアルな世界、「現実世界」そのものということになる。

 地球は丸く、太陽は東から昇って西へと沈み、人間は「死」という運命から逃れることのできない、という現実――著者が描く物語世界は、常に「私」あるいは「僕」という一人称で描かれる、という意味ではたしかに限定的な視点しか持ち得ない世界でもある。そして一人称という、きわめて主観的な世界において、地球は丸い、という事実は、じつはたいして重要な要素ではない。そこで力を持っているのは、自分の心によってとらえられた世界の姿を、自身がどこまで信用するか、ということなのだ。

 本書の中には、「ハードボイルド・ワンダーランド」と呼ばれる世界と、「世界の終り」と名づけられた世界の二種類が存在し、お互いに並走するかのように物語が展開していく。前者は一見すると、私たちの住む現実と変わらない世界を舞台にしているが、主人公たる「私」は計算士と呼ばれる職業に就いている、35歳の男性である。重要な情報が心無い者に盗み出されるのを防ぐため、人間の脳をもちいてデータを暗号化するための技術を駆使して情報を守ろうとする側と、あらゆる手段を使って情報を不正に盗み出し、金儲けの手段としている側――情報という、目に見えないものをめぐって争うふたつの組織が席巻している世界の中で、しかしそうした争いとはあくまで一線を画した立場にいようとする「私」は、どこかクールで厭世的であり、妙なところで頑固さを持ち、しかも女性にモテる、という点では、著者の作品における典型的な主人公像をもっていると言える。そして「私」は、ある老科学者から、音を自在に生み出したり消したりするという研究の成果を暗号化するという依頼を引き受け、そのことによってやっかいな事件に巻き込まれてしまうことになる。

 いっぽう、後者は明らかに現実とは異なる別世界が舞台となっている。「世界の終り」――四方を高い壁に囲まれ、自分の影を捨てることで入ることの許されるその閉じた世界で、主人公の「僕」は、一角獣の頭骨から古い夢を読みとるという仕事をまかされることになる。自分はなぜここへ来たのか、以前はどこで何をしていたのか、といった記憶のすべてを失っている「僕」は、静かでひそやかな「世界の終り」での生活をつづけながら、自分の影の死とともに訪れるであろう、心の消滅する日を待っているのだ。

 このふたつの世界について考えたとき、前者が現実の世界であり、後者が幻想の世界、という位置づけによって、両者を対極的な関係として見ようとしてしまいがちであるが、著者の物語世界の基本が「限定されたヴィジョン」である、という意味では、どちらも現実から距離を置いたところで成り立っている世界であり、両者の本質は同じものだと言うことができるだろう。そこで展開されるのは、あくまで「私」の世界であり、また「僕」の世界なのだ。そして、「世界の終り」における閉鎖性はもちろんのこと、前者の世界に生きる「私」もまた、人とのわずらわしい関わり合いをできるだけ避け、自分ひとりの世界で充足しようとしている点で、やはり閉鎖的である。だからこそ、妙な事件に巻きこまれた「私」はこんなふうに思うのだ。どうしてみんな私のことをそっとしておいてくれないのか、と。

 いずれにせよ、私は『赤と黒』を読みながら、またジュリアン・ソレルに同情することになった。――(中略)――十五歳にしてすべての人生の要因が固定されてしまうというのは、他人の目から見ても非常に気の毒なことだった。それは自らを強固な監獄に押し込めるのと同じことなのだ。壁に囲まれた世界に閉じこもったまま、彼は破滅へと進みつづけるのだ。

 ときどき、自分が生きるこの世界が、ひどく閉塞しているように思えることがある。「完全なヴィジョン」と「限定されたヴィジョン」――だが、人は誰も「完全なヴィジョン」など持つことはできないのだ。私たちの生は非常に限られたものであり、自由にどこかへでかけたり、今の自分とは違った何かになれるわけでもない。そういう意味では、私たちは誰もが自分という名の「限定されたヴィジョン」の中で生きており、またその中でしか生きられない、と言うことができる。

「世界の終り」とは、その内部において完結してしまっている世界である。その完結性を結晶のごとき美しさで描くことのできる著者の力量には感服するばかりであるが、しかし泣きたくなるほど美しく完璧なその世界は、にもかかわらずひどく哀しい。なぜならそこにあるのは、心という不完全なものを取り除いたうえで成立する完璧さであることを、私たちは知っているからだ。

 自分がある出来事に対してどのように思い、何を感じるか、という思考システムの独自性は、当然のことながら他者との差異を生み出すことになる。自分にはないものへの憧れや嫉妬、さらには妬みや恨みといった感情は、そうした差異から生まれるものであることを考えたとき、私たちはそうした心の動きを重荷のごとく感じることがある。そう、自分が自分でありつづける、というのは、けっして楽な作業ではないのだ。そして私たちは、生きていくという、ただそれだけの事実によって常に何かを犠牲にしており、同時に自分もまた自分だけでない何かのために生きていることを、けっして否定することはできない。それは、当人の意思とはまったく無関係に起こってしまう宿命とも言うべきものである。

 自分の内にある「限定されたヴィジョン」の世界に閉じこもり、その内部だけで充足する、という考えは、じつはただの幻想にすぎないのだ。「世界の終り」のなかで、「僕」は切り離された自分の影と対話することで、その世界の不自然さに気づくことになるが、ものを考え、想像する力をもつ人の心というものは、自己完結した世界で満足することを許さない。それは鳥のように、世界を囲む壁を飛び越えていくものなのだ。

 著者の描く登場人物たちには、ほとんど名前というものが与えられない。そして一人称で書かれる主人公は、自身の「限定されたヴィジョン」のなかに閉じこもっていながら、しかしその世界に干渉しては去っていく人たちとの関係を完全に絶つことができずにいる。それこそが著者の小説の大きな魅力であるのだが、そこには、悩み苦しみ、ときには相手や自分を傷つけながら、それでもなお他人と関係し、心を捨てきれずにいる、まぎれもない人間の姿がたしかにある。(2002.07.19)

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