【文芸社】
『二千年の時を超えて』

高市照大著 



「雪が溶けたら何になる?」

 おそらく、今ではもう使い古された感さえある、この有名な問いかけと答えが、私は今でも好きだ。もともとは、ある小学校の理科のテストに出てきた問題だったそうだが、ある意味で、奇をてらったものであるにもかかわらず、そこには私たちの乾いた心をうるおすかのように染み込んでくるも何かがあるからだ。たとえ、その出所を忘れることはあったとしても、その素敵な感覚だけは忘れることはないだろう、という気さえする。

 雪が溶けたら「春」になる――そこにあるのは、冬の後には必ず春がやってくる、という表情豊かな四季のサイルクであり、また、はてしなくつづくと思われがちな私たちの日常生活にも、ちょっと周囲に目をやれば、小さな変化は常に訪れていることを気づかせてくれる自然の息吹でもある。春が来て、夏が過ぎ、秋が来て、冬が訪れる。そして冬のあいだに降り積もった雪がすっかり溶けるころ、再び春がやって来る――雪が溶けたら水になる、というあたりまえの事実だけでなく、そうした自然の営みに目を向けたとき、私たちはあらためて、凍てつくような冬はいつか必ず終わりを告げるし、また、たとえどんなに長くても、夜はいつか必ず明けるものであることを、私たちはあらためて実感することになる。そして私たちもまた、壮大な自然のサイクルのなかに組み込まれており、そのサイクルのなかで生かされているのだ、ということも。

 本書『二千年の時を超えて』の中に綴られている何気ない言葉たちは、私たちのまわりに溢れている、ありふれた、注意していないと見過ごしてしまいそうな自然を受け止めたときに、生まれてきた言葉である。まるで、感じたままを素直に言葉にしたかのような、エッセイとも詩とも言えないような言葉の連なりには、自然から元気をわけてもらったかのような躍動感に満ちている。

 あなたが自然にふれた時、そこに気づきと癒しを感じることでしょう。

(『山桃の木』より)

 世の中には、自分のことしか考えられない、自分勝手な人間というのがたしかにいる。そもそも人間は、産まれてくるときも死にゆくときもひとりであり、そういう意味では人間は孤独を背負って生きていかなければらならない生き物でもある。自分はひとりだ、誰もいざというときには助けてくれない、頼りになるのは自分自身だけ――もちろん、自分がまったく努力することもなく、他人の好意だけをあてにするようなことは論外であるが、そんなふうに思いつめて生きていくのは、なんだかとても寂しい。なぜなら、私たちは知らないうちに、自分以外のさまざまなものから多大な恩恵を受けており、またそうした助けなしには生きていけない生き物でもあるからだ。

 自然にふれた時に感じる、気づきと癒し――それは、私たちが個人で孤立した存在ではなく、自然という雄大な流れの一部である、ということへの気づきであり、夜が必ず明け、雨が必ず降り止むように、人生というのはけっしてつらいことばかりがつづくものではない、ということへの癒しである。

 あなたが空を見上げたのは、いつのことだろうか。道端に咲く小さな花の可憐さに、思わず歩みを止めたのは、いつだろうか。鳥のさえずりに耳をすませたり、雲の流れに思いをはせたりする、という行為を、私たちはもうずいぶん前から忘れてしまっていることに、本書は気づかせてくれる。それは、ほんのささいなこと、生きていくうえでは大したことではないのかもしれないが、ときに人は、そのささやかな行為によって慰められ、心癒されることもあるのだ。そこには、私たちが考えている以上に深い真理があるような気がする。

 今日だめでも明日がある
 明日という日は明るい日になるかも
 しれない
 今日涙を流しても
 明日は笑える日となることを信じて
 明日は輝く日となることを信じて
 生きて行きたい

(『明日は明るい日』)

 今日、私たちはこうした言葉を使わない。それはあまりにもあからさまで、スマートではないからだ。そして他人に自信をもってそう言うことができるほど、自身の人生が充実していると感じている人も多くはないだろう。あまりにもあからさますぎる言葉は、逆に疑いの心が芽生える。だが、自然がこちらから触れに行かなければ何も答えてくれないのと同じように、たとえあからさまであっても、何らかの言葉で表現しなければならないものも、たしかにある。そういう意味で、本書はまさにそのタイトルどおり「二千年の時を超えて」きた言葉なのかもしれない。

 本書に綴られた小さな言葉たちが、大地にうるおいと恵みをもたらす雨のように、読者の心に沁みこんで、生きていくうえでの糧となれば幸いである。(2002.07.15)

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