【双葉社】
『僕たちの戦争』

荻原浩著 



 『都立水商(おみずしょう)!』『ドスコイ警備保障』の作者である室積光は、元々は劇団出身で、今も脚本という形で演劇とかかわりをもっていらっしゃる方であるが、以前とあるオフ会をとおしてお会いしたときに聞いたさまざまな話のなかでも、とくに昨年公開した戦争を題材にした新作芝居に対する、ある観客の感想がなかなか興味深かったことを覚えている。私は残念ながらその演劇を観に行くことができなかったのだが、その観客は第二次大戦中の日本の若者について「国のために死ぬことがあたり前だった」という知識にとらわれており、その点で演劇に不満があったということらしい。

 もちろん私もまた、かつてそんな時代が日本であったこと―― 一部の軍閥によって「鬼畜米英」「一億火の玉」といった言葉に象徴される、国民全員に多大な犠牲と歪んだ精神を強いるような思想操作がおこなわれてきたことは知っているし、じっさいに当時の人たちが、あるいは熱に浮かされるようにして、そんな教育に骨の髄まで染められていたのだろうと想像することはできる。だが、私がいだいている当時の人たちの言動は、あくまで知識の一部が誇張されたイメージでしかなく、そこには彼らが私たちと同じ、生きた人間であるという意識がどこか欠けてしまっているところがあるのは否定できない。

 まがりなりにも民主主義国家に生きる私たちにとって、時代錯誤もいいところの「滅私奉公」的な精神がまかりとおっていた戦時中のことを想像するのは、あるいは遠い異国で生きる人々のことを考えるよりも難しいことであるのかもしれない。だが、それでもひとつだけたしかなのは、私たちも当時の人たちも同じ人間であるということ――彼らにも個性や感情といったものがあり、今の私たちと同じように悩んだり苦しんだり、あるいは誰かに恋をしたりしていたという意味で、私たちと何ら変わらないということである。そもそも千年や二千年も離れた過去のことであればともかく、まだ百年も経っていない、同じ日本の過去のことなのだ。

 吾一たちが死ぬために生きてきた戦争を、この国の人間は忘れようとしている。
 忘れたいのなら、忘れるがいい。しかし忘れることはできても、消すことはできない。

 本書『僕たちの戦争』の基本にあるのは、タイムスリップである。2001年の平和な時代を生きる19歳の青年、尾島健太が海でサーフィンをしている最中に、昭和19年9月、第二次世界大戦のただなかにある日本に飛ばされてしまう、というストーリーである。それだけであれば、いかにもひねりのない内容になってしまうのだが、本書の場合、未来から過去へのタイムスリップと同時に、過去から未来へのタイムスリップが同時に起こる。彼が飛ばされた昭和19年という時代で、霞ヶ浦練習航空隊の訓練生として戦闘機の操縦訓練をしていた石庭吾一が、いわば健太と入れ替わるようにして2001年へと飛ばされてしまうのである。

 お互いに、それまでとはまったく様変わりしてしまった世界をまのあたりにして、おおいに戸惑いつつも何とか現状に対応していく様子は、健気であるというよりも、むしろ滑稽さのほうが目立つ。まるで、日本のことをほとんど知らないアメリカ人が、今も日本には「サムライ」や「ニンジャ」がいて、責任をとるために「切腹」するものだと信じているかのような場違いな雰囲気――本書の読みどころのひとつが、過去に飛んでしまった健太や現代に来てしまった吾一の、いちじるしいまでの文化や生活習慣、あるいはその時代特有のものの考え方といったものの違いによって引き起こされる、さまざまな騒動にあることは間違い。

 だが物語が進むにつれて、健太も吾一も自分が理由は不明ながらタイムスリップしてしまったこと、そしてその世界には自分と瓜二つの人間が存在し、どうも自分と時代を超えて入れ替わってしまったことを知る。もちろん、ふたりはけっして自分がもといた時代へ戻ることをあきらめたりはしないが、少なくともその方法がわかるまでは、お互いがお互いをいつわることで、ようするに健太は吾一として、吾一は健太として、とにもかくにもその時代を生きていこうと決意する。本書のもっとも注目すべき点は、戦時中と21世紀という、いっけんすると何もかもが異なっているように思える時代を生きる人間が、かりに入れ替わってしまったとしても、それなりにその時代に適応できてしまうという、まさにその事実にほかならないのだ。

 いっぽうは高校を卒業したものの、進学も就職もせず、長続きしないアルバイトをしながら親のすねをかじっている、何をやっても中途半端な現代っ子、いっぽうは「お国のために」という教育に心の底から染まった、頑迷な軍国少年のなれのはてである航空隊の訓練生。いかにも対象的な性格のように思えるふたりであるが、じつのところはっきりとした「自分」というものを持ち合わせていない、という意味で、どちらも似たものどおしなのだ。ただ吾一の時代においては、吾一が何も考えずとも彼を強引に一方向に引っ張っていってしまう、そんな時代だったというだけのことでしかない。健太と吾一がその生きる時代を交換しても、それなりに適応できてしまうという事実は、同時にどれだけ時代を経ても、なお変わらないものがたしかにあることを、何よりも雄弁に物語っているのである。

 この書評の冒頭で、私は戦時中を生きた人たちのものの考え方を想像するのは難しいと述べた。だが、難しいということと、不可能だということとはまったく違う。何より現代から過去へと飛ばされた健太が、当時の人たちの言動を、まるで翻訳するかのように、現代を生きる私たちの感覚で置き換えてくれる。なぜ彼らは特攻などという無謀な作戦に従っていくのか、なぜ勝てもしないとなかばわかっていながら、それでもなお戦争をやめようとしなかったのか――そこにあるのは私たちと同じ、じつにちっぽけでつまらないものにとらわれてしまう、生きた人間の姿なのだ。そしてそのとき私たち読者は、現代と戦時中という、はるかに隔たっていたはずの距離が、たしかに縮まっていることに気がつくことになる。

 はたして健太と吾一は、それぞれが飛ばされた時代に対して何を感じたのか、そして自分が元いた時代に戻ってくることができるのか。時代を超えたふたりの青年の、それぞれがまぎれもない個人として戦った「戦争」の姿を、ぜひともたしかめてもらいたい。(2005.05.09)

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