【新潮社】
『オウム帝国の正体』

一橋文哉著 

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 私の住むアパートの最寄駅は、その構内に鉄道警察隊の派遣所を持つ大きな駅であるが、その派遣所の出入り口前に、いっぷう変わった立て看板がある。

 等身大の人型にベニヤを切り抜き、顔の部分にある人物の顔写真を貼りつけたその立て看板は、全部で三体。新幹線の停車駅ということもあって、連日大勢の人でごった返すその駅構内で、その立て看板だけが妙にその場になじまない、異様とも言うべき雰囲気をかもし出しているように私には思えた。近づいてよく見てみると、それぞれ「平田信」「菊地直子」「高橋克也」という名前と、おおよその身長が記載されており、その立て看板が、今もなお逃亡をつづけていると見られているオウム真理教幹部の特別指名手配書であることがわかるのだが、ひさしぶりにその等身大の手配書を前にして、あの日本じゅうを震撼させた地下鉄サリン事件からすでに7年以上の時間が経過しているという事実に驚かされた。彼らはいったい、どこで何をしているのだろうか。もしかしたら、すでに人知れぬ場所で始末されてしまっていて、それで見つからないのではないだろうか。

 坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件、新宿駅での青酸ガス発生未遂事件――まさに世紀末を象徴するかのような、常軌を逸した事件を次々と引き起こしていった、オウム真理教という名の狂気は、上述した指名手配犯らの行方になんら進展のないまま、世間から忘れ去られようとしている。しかし、もしあなたが本書『オウム帝国の正体』に目を通したなら、一連のオウム事件はけっして終わったわけではない、ということを思い知ることになるだろう。

 たしかに、教祖麻原をはじめとする教団の主要な幹部は逮捕され、オウム真理教はその活動を停止した状態にある。だが、99年12月に刑期明けで出所してきた上祐史浩によって、教団の名前が「アレフ」に変更されたことはご存知だろう。それが、オウム新法適用を免れるための方便でしかない、というのは素人の目から見てもあきらかであるが、著者である一橋文哉は本書の中で、オウムの起こした事件をオウム内部でのみとらえるのではなく、オウムを隠れ蓑にし、オウムが生み出す莫大な利権を目当てにうごめいている「闇の勢力」とも言うべき存在を浮きぼりにしようとしている。そう、この深く暗い「オウムの闇」の真相を明らかにしなければ、一連のオウム事件は真の解決を迎えないばかりか、むしろその本質は何も変わらないまま、教団の暴走をさらに拡大させてしまうという恐るべき可能性を、本書は指摘しているのだ。

 オンライン書店「bk1」に書評を書いている安原顕は、「書評を書く人は問題意識が必要」だと述べている。それは端的に言えば、何かに対して「ヘンだな」「不快だな」と思うことであるが、そのあたりの問題意識がはっきりとした形をとっているのが著者であり、また本書であると言うことができるだろう。じっさい、徹底的な調査と膨大な資料をもとに書かれた教団の現状、および三大未解決事件と言われている坂本事件、国松長官狙撃、村井秀夫刺殺の顛末を読み進めていくにつれて、私たちがマスコミなどから知らされた事実をとらえる目が大きく変化していくことを自覚せずにはいられない。それは、本書を通して私たち読者が、著者の感じた問題意識――「なにかヘンだ」「どこかおかしい」という思いを追体験することでもある。

 オウムの事件にかぎらず、すべての真相がうやむやにされたまま闇に葬られてしまった事件というのが、過去にいくつかある。だが、これがたんに日本の警察の無能さを指し示すものなのかと言えば、けっしてそんなことはない。もちろん、刑事と公安警察との対立が、しばしば捜査の進展を妨げていたことは本書にも書かれていることであるが、基本的に警察は、犯罪捜査のプロ集団である。ましてやオウムの事件といえば、社会全体をパニックに陥らせた、あまりにも大規模な事件である。警察の面子にかけても解決すべき事件――だが、そんな彼らの尽力にもかかわらず、事件が完全に解決しないのは、どこかから事件を解決させないための圧力がかかっている、と考えるのが妥当であるし、じっさい、本書の中にはそうとでも考えなければ辻褄の合わない事実をいくつも取り上げている。

 はたして、国松長官を狙撃したのは、本当にオウムの関係者なのか。坂本弁護士一家を殺害したのは、本当にオウム信者だけの力によるものなのか。そして、麻原が描いた荒唐無稽な狂気を荒唐無稽で終わらせることなく、現実のものとなるよう、悪知恵を授け、武器や資金を調達した者の正体は……? 正直、本書を読んでいて、私は自分が生きているこの社会の闇にひそむものの存在を、心底恐ろしいと思う。彼らの存在がいつまた、地下鉄サリン事件のように、私たちの生活そのものを脅かすことになるかもしれない、という思いは、けっして大げさでもなんでもない事柄であるのだ。

 いっけん、オウム事件とはまったく関係ないように思われる、本書のプロローグで取り上げられた「伝説」の意味が、エピローグで驚愕の事実をともなって解明される、という構造をとった本書は、たしかにオウム事件を追いつづけることで書き上げられたドキュメンタリーであることを否定はしない。しかし、本書が本当に書きたかったのは、オウムそのものではなく、そうした事件の裏で暗躍し、おのれの欲望を満たそうとする闇そのものであると言うべきだろう。著者の鋭い「問題意識」は、そうした闇の存在を野放しにしておくことに対する、大いなる抵抗なのである。(2002.07.27)

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