【新潮社】
『いつか王子駅で』

堀江敏幸著 



 最近、何度か昔の頃の夢をみるようになっている。いや、夢というのはいつもみているものらしいから、数ある夢のなかでもたまたま私の意識が覚えていた夢のひとつなのだろうが、そのなかで私は大抵、何か忘れ物をしておおいに焦っている。小学校への登校途中で、何かを忘れたことに気がついてあわてて家へ引き返している夢、大学時代、履修科目の登録をすっかり忘れていて、あわてて事務所に向かっている夢――問題なのは、その夢の内容が過去の事実に即したものであるかどうか、ということではなく、その夢が何を意味しているのか、という点だ。もしかして私は、何か大切なものを忘れていて、私の無意識がそのことを私に訴えようとしているのだろうか。だとしたら私は何を、どこに忘れてきたというのだろうか。

 私のこれまでの、とくに長いというわけでもない人生を経て、とにもかくにも今という時点にいることに、とくに何かを感じているわけではない。もちろん、やり直したいと思うことや、なかったことにしたいことなどはいくらでも思いつくのだが、過ぎてしまったことや昔のこと、あるいは、まだ来てもいない未来のことについて、必要以上に思い悩むという行為を、けっこう意図的に頭から締め出すようにして生きてきたのではないか、という思いはある。とくに駆け抜けるような生き方をしたいわけではない。太く短い人生を熱く燃焼させたいという思いもない。ただ単に、過去や未来について必要以上にとらわれることに、とくに大きな意味を見出せずにいる、ということなのだろうと思う。だが、では私が唯一目を向けているはずの「今」という瞬間を、どれだけ真剣に生きているかということになると、これもまたけっして自慢できたものではないという事実に突き当たってしまうことになるのだ。

 退屈な日常をいかに反復すべきかをみずからに問いかけるとき、――(中略)――畢竟、こうした「子供心に似たほのかな狼狽」を日々感じうるか否かに、大袈裟だが人生のすべてがかかっているとも思うのだ。そのためには、目の前を流れていく光景に、刻々と更新される哀惜をもって接しなければならないはずなのだが、そういう当たり前といえば当たり前の努力を私はしているだろうか。

 本書『いつか王子駅で』に書かれているのは、ある時代を駆け抜けていったものたちと、その駆け抜けていったものたちが残像のように残していった、いずれは人々の記憶からも消えてしまうであろうものを丁寧に積み上げていく作業である。物語の筋としては、とくに取り上げるべきものはないし、またそんなことをしても本書においては無意味でもある。なぜなら、本書のなかで本当に意味のあるものは、誰が何をしたかを追うことではけっして見つけられないもののなかにこそあるからだ。

 そういう意味では、本書の冒頭に登場するものの、その後すぐに姿を消してしまう、語り手の「私」が正吉さんと呼ぶ人物は、この小説の本質を突くキャラクターだと言える。語り手が東京の、路面電車の走る下町に越してきて半年ほど経ったある日、「かおり」という名の小さな居酒屋で知り合った正吉さんは、語り手と同じ下町に住んでいる印章彫りらしく、以来顔をあわせれば軽く挨拶をするくらいの間柄でしかなかったものの、背中に彫られた昇り龍の刺青や、表立って看板を上げて商売をしているわけではないことなど、いろいろ深い事情を抱えていそうなところがあるのもたしかで、それなりに気にかかる人物として書かれている。だがある日、正吉は大切な人に印鑑を届けると言ったきり、姿を消してしまう。ちょうど「かおり」で飲んでいたときのことで、いかにも近くをぶらっと出歩くという感じで出て行った正吉さんは、その「大切な人」にもっていくつもりだったカステラの包みを置きっぱなしにする、という何とも中途半端な消え方をしてしまっており、それゆえに、本書における彼の立場がこの上なく宙ぶらりんな状態に置かれてしまうことになる。

 いったい正吉さんは、どこで何をしているのか――すぐにでも戻ってきそうな感じだったがゆえに、ほんの軽い気持ちで彼が置き忘れたカステラを預かることになった「私」だが、その予想に反して、何日経っても正吉さんの姿を見つけることができない。まさに誰も知らないうちに、ふと気がつくといなくなってしまった正吉さんではあるが、しかしそのことがわかったところで、では語り手の「私」が彼の行方を追うという展開になるかといえば、けっしてそんなことはない。「私」は「私」である教育施設の時間給講師の身でしかなく、自身の生活を支えていかなければならない立場であるし、そもそも金や時間に余裕があるわけでもない。だが、手元には彼のものであるカステラがたしかにあるわけで、それは正吉さんの不在という状態が、あえて決着をつけないままの状態を、無限に引き伸ばしていくことを意味する。そして、「私」の思考は、まるで残されたカステラに触発されるかのように、その過去において自身の傍を駆け抜けていったものたちへととりとめもなく向けられていく。

 競馬における最後の追い込みのさいの、アナウンサーの興奮した実況を脳裏に再現しながら、まるで逃げ馬のように「私」から遠ざかってしまった、正吉さんを乗せたバスが象徴するように、本書のなかで焦点があてられるのは、すでに今は失われているもの、過去の遺物と化したものの残像である。それは、たとえばかつて競馬界で、特別強いわけではないのに妙に印象に残るエピソードをもつ競走馬のことだったり、かつて愛読していた小説や詩のひとつだったり、子どもの頃に流行した妙にゴテゴテした自転車だったりするわけだが、そんな妙な懐かしさを誘う思い出や記憶の断片をよみがえらせながらも、しかし「私」自身もまた、何かしかるべき目的に向かって突き進むわけではなく、このうえない宙ぶらりんな状態にある。

 以前に読んだ著者のエッセイのひとつに、ある目的地へと向かう飛行機が、その途中で寄ることになる飛行場での、次の出発までの待機時間のことを書いたものがあったが、本書の舞台となる王子駅周辺をはじめとする、語り手がめぐる場所にしても、たとえば山の手線内のような完全な「都内」というわけでも、かといって完全な「郊外」とも言えない、言ってみれば「境界線」上の世界である。今や時代遅れも甚だしい路面電車が現役で動いており、不況のあおりで次々とつぶれていく運命にある下町の工場が稼動しているという、どこか時代に取り残されたような場所で、ますます人々の記憶から消えていこうとするものたちのことに触れていく本書には、ひたすら時代の先を見据えようとがむしゃらに駆けていくときには目に留まることのない何かを喚起させるものがある。それは、あくまで通過地点でしかない飛行場での待機時間や、別の路線への乗換駅としての機能が強い王子駅での時間――目的地へと早くたどり着くという意味ではこの上なく無駄な時間というものに対するいとおしさである。

 いつもと変わらないでいるってのは、そう大儀なことじゃあないんだ。変わらないでいたことが結果としてえらく前向きだったと後からわかってくるような暮らしを送るのが難しいんでな、と正吉さんはピース缶を手によくつぶやいていた。ありのままってやつが逃げにつながるようじゃ元も子もない。

 けっして過ぎし時を回顧するというわけではない。ますます加速していく時代が切り捨てていったもののなかに、もしかしたら私たちにとって大切な何かがあるのではないか――駆け抜けていったものの残像を丁寧に積み重ねていく作業が本書という形を成したとするなら、その積み上げたものがどのような形となり、それが私たちに何を訴えかけてくるのか、私たちは一度立ち止まって、その語りかけに耳を傾けるべきなのかもしれない。(2007.03.16)

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