【角川書店】
『姥捨てバス』

原宏一著 



 とくに小説にかぎらず、本を読むことの面白さのひとつに、それまで思いもしなかった考えや認識に触れることができる、というものがある。こうした体験は、ふつう自分以外の他者とのかかわりによっておのずと得られるものではあるのだが、人ひとりの交友関係にはおのずと限界がある。

 本を読むという行為は、その本の著者の考えや認識に触れることでもある。もちろん、人と対話するような双方向な関係は望めないが、それでも本のなかに書かれたさまざまな思いや主張といったものに触れることで、おのずと自身の思いや主張との比較がなされ、そのことに賛同したり反発したりすることになる。そしてときには、自分がいかに既存の概念や世間一般に言われている常識に依存したものの考えをしているか、といったことに気づかされることもある。

「だって世間では『年寄りは子どもの家族と暮らすのが幸せ』なんて言われてるけど、あたしたちはだれもそんなこと思ってなかったんだもの」

 今回紹介する本書のタイトルは『姥捨てバス』である。これはなかなかインパクトがあると同時に、どこか心穏やかでないものをはらんでもいる。姥捨て――つまり、労働力としてはもはや期待できないお年寄りを捨てるという概念は、じつはけっこう昔から古今東西の別なく、昔話や民間伝承などといった形で語り伝えられているものであるが、そこには常に捨てられる老人側の視点ではなく、そうした老人を世話している側の視点があった。姥捨てにおいて、「捨てる」のは常に世話する側、若者たちであったのだ。だが、逆に自分が生み育てた子どもたちから捨てられる立場であるお年寄りたちは、はたして何を思い、どのようなことを考えていたのか、という視点について、私たちはどこまで意識することができるだろうか。仮にそんな老人たちのことを想像することができたとして、それはあるいは、私たちにとって都合のいい美談に仕立て上げるための勝手な解釈とならないだろうか。

 そういう意味で、本書のタイトルはたしかに「現代版姥捨て」を象徴していることはたしかであるが、そこにはきわめて皮肉のきいたユーモアが混じっており、またそれゆえに逆説的なものをもっている。何より「姥捨てバス」というネーミングは、本書の語り手である「おれ」とその相棒が運営している白バス――無認可で営業している白ナンバーの観光バスが企画した、あるツアーの噂から発生したものである。つまり、最初から「姥捨てバス」なるものがあったわけではなく、いろいろな偶然が重なった結果として生じたものであるのだ。

 アジア諸国の日本旅行ブームに乗って脱サラし、白バスを開業したものの、目論見どおりにいったのは最初の数年だけ、アジア諸国のバブルが弾け飛んでからは一気に経済が冷え込み、語り手たちの白バスも開店休業状態、このままだと事務所の家賃も払えず、倒産するしかないという状況に追い込まれていた。そこで相棒が窮余の策として思いついたのが、旅行好きの老婆たちをターゲットにした「清貧ツアー」だった。じっさいには、おんぼろバスで婆さんを山奥の湯治場に連れていくだけのものでしかなかったのだが、思惑どおりに客が集まらないうえに、数少ない客のひとりが失踪するというアクシデントが発生、「このツアーは姥捨てが目的だ」という噂が噂を呼んだあげく、客が全員途中で帰ってしまうという結果になった。

 あとでよくよく調べてみれば、失踪した老婆はタクシーを呼んで勝手に帰っただけのことだとわかったものの、語り手たちにとってはけっして小さくはない打撃であることはたしかで、この企画はもう断念するしかない、と思っていた矢先に、たんなる噂でしかない「姥捨てツアー」に参加したいという連絡が入ってきたのだ。

 婆さんたちにとって死は身近な問題だ。身近な問題だからこそ深刻に考えれば考えるほど怖くなる。そういうとき、人間は死の恐怖をジョークで昇華させようとする。――(中略)――だから、ぽっくり寺などというジョークめいた企画に飛びついてしまう。地獄めぐりといった観光地が人気なのも、似たような心理からではないだろうか。

 この酔狂な「姥捨てツアー」――あくまで姥捨ての雰囲気が味わえるツアーであって、本当に姥捨てを敢行するわけではない――に、捨てられる側であるはずの老婆たちがこぞって参加するという状況は、私のようにまだ年寄りとは言えない読者にとっては理解の範囲外のことだ。そしてそれは、ツアーを企画した語り手や相棒にとっても同じことである。即物的な商魂と押しの強さをもつ相棒にしてみれば、老婆たちが何を考えているのかはともかくとして、とにかく白バスが儲かればそれでいい、ということになるのだが、ここで重要になってくるのは、相棒をはじめとして、本書に登場する若者たちの、誰も老婆たちの心情について斟酌していない、という事実である。唯一の例外が語り手の「おれ」ということになるのだが、彼の場合、たまたま自分の母親が「姥捨てツアー」に参加することになったという事情と、何事につけ意思表示が下手で、いつも相棒の思惑に流されるような生き方をしてきたこともあって、物語の流れを変えるような力強さに欠けている。

「姥捨て」という言葉には、常に老人を世話する側の視点がある、と上述した。だが本書の場合、その「世話する側」である若者たちにとって、「姥捨てツアー」に参加した老婆たちの存在はひとつの大きな謎であり、また矛盾でもある。もちろん、昔から言われていた姥捨てにおいても、本質的には同じところがあったかもしれないが、少なくともそこには両者の共通認識めいたもの――貧しくて家族全員を養えないなど――はあった。だが本書の場合、そうした共通認識は存在しないのだ。そしてその点にこそ、本書最大の皮肉が込められている。

 あくまで主体的に「姥捨てツアー」に集まってきた老婆たちは、はたして何を考え、どのような思いを内に秘めているのか。今後高齢者社会にますます拍車がかかると言われる現代において、今なお老人たちの心境に届かない私たちに対するこのうえない皮肉が、あくまで老婆たちが主体となった「現代版姥捨て」たる本書のなかにはたしかにある。(2009.09.12)

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