【新潮社】
『♂♀(オスメス)』

花村萬月著 



 会社の同僚である男ばかりが何人か集まって、飲みに出かけたときのことだ。アルコールの勢いにまかせて、話題は当然のごとく女のことへと移っていったわけだが、そこから何がどうなったのか、気がつくと「女体盛り」の話で盛り上がっていたことがある。
「女体盛り」なんて辞書に載っているはずもないだろうから説明しておくと、裸のねーちゃんの体の上に、刺身やら何やらの盛り合わせを配した料理のことであるが、同僚のひとりがその女体盛りについて、「俺だったら直接女のほうをいただく」とのたまわったとき、「女体盛り」という概念が若者のものではなく、精力や生殖能力が衰えつつあるご老体の発想なのだ、ということに気がついた。

 よくよく考えてみれば、刺身はもちろんのこと、それ以外の料理にしろ、人肌であたためられたものが美味であるとは言い難い。だが、それでも女体盛りが「美味」であるとするなら、それは健全な若者が女の裸体そのものを賞味することで得られる快楽の代用物としての美味なのではないだろうか。そこには、たんなる生殖のためではなく、快楽を求め、性欲を満たすためだけのセックスを、年がら年中おこなえるようになった人間の、限りなく旺盛で無軌道になった性に対する想像力の、すさまじいまでのエネルギーの片鱗が、たしかにある。

「淫らで、ふしだら。全篇H」と帯にうたれた本書『♂♀』は、たしかにひとつのエロ小説である。ストーリーなど無きに等しい本書でおこなわれていることと言えば、「亀頭原理主義」を唱える45歳の小説家が、いろいろな若い女性を手玉に取り、ヤリまくる、というもの。露骨な生殖器描写、さまざまな形の性行為の描写を惜しげもなく開陳したその内容は、男を欲情させるには充分な内容である。だが、それでもなお本書を読み終えて私が思わずにはいられなかったのは、本書を真に「ごく普通の」エロ小説として書き上げることができたとしたら、どんなに楽だったろう、ということなのだ。なぜなら、露骨な性描写に満ちた本書の中には、こうした男女の営みを「愛」という名の幻想によって昇華することもできないまま、それでもこの本能的な衝動を意味づけせずにはいられないひとりの男の苦悩が、たしかに刻まれているのがわかるからだ。

 異性とはどういう存在かを定義すると、当人にとっては無様で禍禍しく映る忌忌しい器官を心底から慾して、その形状さえも好ましく、愛おしく感じてしまう者のことではないか。

 著者である花村萬月の作品には、常に善と悪、聖と俗、そして美しいものと醜いものといった両極端にあるはずのもの、矛盾するようなものを同じ土俵に乗せてしまい、そこから生まれてくるもの、あるいはそうした定義づけを越えたところにあるものを目指したい、という苛烈な欲求が見え隠れしている。著者の作品の大きな特長である暴力シーン――いとしいものであるがゆえに加えずにはいられない暴力への衝動は、その最たる例だろう。本書におけるセックスというのは、著者にとっては暴力と同義なのだ。そして私たちは、あらためてセックスという名の暴力について、男女のもつ醜い生殖器をこすりあわせて行なう、はなはだ滑稽で無意味な快楽を追求していくことについて考えざるを得なくなる。

 じっさい、本書のなかで展開されるセックスの数々は、たしかにエロティックではあるかもしれないが、それ以前にどこか汚らしいところがある。男が女の性器や肛門を舐めあげ、また生理中の女の、血のにじんだショーツに舌をはわせる。あるいは小便をしたばかり男のペニスを女がくわえ込み、またそこから吐き出される精子を飲み込む。あるいは肛門に指しこんだ指を女にくわえさせる――そこにあるのは、けっして美化されたセックスではなく、また子孫を残すために行なう生殖行為でさえもなく、ただ快楽を得るために、人としての意志や尊厳といったものをすべてかなぐり捨てて行なわれるセックスである。汗や唾液や精液や愛液や、そうしたどろどろとしたものにまみれた汚らわしい性行為の詳細を、本書はすべてあからさまにさらけ出す。美化される余地などかけらもない、男と女のまぐわう様は、しかし人類が延々と繰り返した営みであり、人はたしかに、その汚らわしい行為を、ときには聖なるものとして黙々とおこなえるだけの、おそるべき想像力をその身に宿した生き物でもあるのだ。

「出産といえば聞こえはいいが、人間は排泄されるんだよ。飯を食えば消化されて糞として排泄される。ビールを飲めば小便としてやはり排泄される。同じようにセックスすれば妊娠して、赤ん坊が排泄される」
「どんなに気取っていても、あたしたちは排泄物なんですね」

 なんと身もフタもないセリフだろうか。だが、さんざん性行為をおこなってきた後に来るこのセリフこそが、人間という生き物のもっとも本質的な部分をとらえていることを、私たちは知る。どんな知的なインテリであっても、私たちは――少なくとも性に目覚めた世の男たちの大半は――言葉の羅列に過ぎないエロ小説に想像力をうながされ、欲情してしまう。そして、私も含めた男の読者たちは、充血して屹立した自身の欲望器官をまのあたりにして、しかしそのはけ口がどこにもない、という事実に茫然とすることになるのだ。その生理的な反応はある意味で、露骨な暴力シーンに対する嫌悪感にも通じるところがあると言えよう。

 人間のはてしない欲望と想像力は、性欲のおもむくままに「女体盛り」なるものを生み出した。およそ食欲を満たすという目的からも、また性欲を満たすという目的からも切り離された、この無意味な存在は、そのまま私たち人間だけがおこなう快楽のためだけのセックスの姿でもある。本書はたしかにエロ小説であるが、それ以前に「なぜ人はエロ小説を読むのか」という、おそらく意味づけなどできない疑問に答えようともがいたあげくに生まれた作品である。(2002.11.23)

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