【松籟社】
『厳重に監視された列車』

ボフミル・フラバル著/飯島周訳 




「おれたちの駅を弾薬を積んだ二十八両の貨物列車が通過する。――(中略)――そして、おれたちの駅と隣の駅との間には丘は一つもないし、建物も一軒もない……ということは、列車全体を吹っ飛ばしてもそのつけは宇宙が払ってくれる、というわけだ……」

 恋人とセックスしようとして失敗したことを苦に自殺しようとしたが、けっきょくそれも失敗に終わった操車見習員のフルマ・ミロシュが、最後にはドイツの貨物列車を吹き飛ばすための爆弾を投げ込むことには成功するものの、自分も銃で撃たれて死亡する――これが、今回紹介する本書『厳重に監視された列車』のおおまかなあらすじである。そして私が本書の書評において、未読の方々のことをまったく考慮することなく、物語の全容をネタばらししたのは、そこを起点としないかぎり本書を評することが叶わない、という特殊な事情による。もっとも、こんなあらすじを提示されても本書の十分の一も理解できないに違いない、という読みもあるのだが。

 そこで、今度は本書の背景を語ってみる。時代は一九四五年のチェコ、当時のチェコはナチスドイツによる保護領(という名の支配)のひとつとなっていたものの、すでにドイツの敗戦色が濃厚になりつつあり、本書の舞台となるチェコの小さな駅でも、負傷したドイツ兵を満載した列車が通過していったり、連合軍の戦闘機が連日領土にまで攻め込んできたりといったシーンが見られる。つまり、主人公たるチェコ人のミロシュにとって、ドイツは母国を蹂躙した憎き敵ということであり、彼が同じ操車員であるフビチカとともに、ドイツの貨物列車を爆弾で吹き飛ばすという行為の動機としては、一応は納得できる。だが、それでは彼が愛国心溢れる若者なのかというと、けっしてそういうわけではないし、ナチスに対抗して戦うパルチザンというわけでもない。あくまでミロシュは、国営鉄道に所属する一介の操車員でしかない。

 では、そんな彼がなぜ本書のなかで、列車を爆破するという行動をとるに到ったのかを考えたとき、じつはその点こそが本書の本質を成していることが見えてくる。たとえば本書には、物語のキーとなるような象徴的なエピソードがいくつかあるのだが、そのうちのひとつに、彼の祖父の話がある。彼の家系の男たちは、代々国に養われるようにして生きてきたところがあり、曽祖父は長年にわたって傷痍年金を獲得していたし、彼の父親は元機関士で、四十八歳のときから年金生活を満喫していた。言ってみれば、国から金をもらってのらくら生きてきた家系ということになるのだが、そのいっぽうで、催眠術師だった祖父は、国境を越えてきたドイツ兵にたったひとりで立ち向かっていくという勇敢さを見せてもいる。もっとも、その方法が「催眠術でドイツ兵を追い払う」という、およそ非現実的なものであり、案の定祖父はこのうえなく悲惨で、ある意味滑稽な最期を遂げることになったのだが、それでもここに、ミロシュの行動の裏づけとなる要素のひとつを垣間見ることができる。彼の家系は、まがりなりにも国のために働いていたという実績がある。そしてミロシュの現在も、彼の想像以上に彼の母国と深く結びついているのだ。

 第二次大戦末期を舞台とする作品は、かならずといっていいほど戦争の悲劇というテーマとセットになっている。だが本書では、ことさらその悲劇性を強調するような演出はない。むしろそれ以外の、いかにも人間臭いエピソードを連ねていくことで、そうした悲劇性を押し込もうとしているような節さえある。たとえば男女の関係などはその良い例で、フビチカが勤務中に同じ駅の電信係であるズデニチカとよろしくやっていた、それも駅長の事務室の寝椅子を勝手に使い、彼女の尻に駅のゴム印を押すという悪ふざけをしていたというのは、ともすると空襲で町が爆撃されたときのエピソードを、文字どおり吹き飛ばしてしまうほどのインパクトをもっている。そして、ミロシュの自殺未遂の話にしても、その理由のあまりのささやかさに、逆に大きなインパクトを残す。

 本書におけるミロシュという若者は、何かを成し遂げようとして失敗したり、うまくいかなかったりするというポジションにある。恋人がいるし、彼女を愛してもいる。だが、セックスはうまくいかず、また自殺にも失敗している。そこから見えてくるのは、物事を貫徹できないという曖昧さである。だが面白いことに、この曖昧さという属性は、そのまま「死」というものへの曖昧さにもつながっている。自殺に失敗するというのは、死を貫徹できなかったことに他ならない。そして本書を読み進めていくとわかってくることであるが、本書にはじつに多くの人の死に溢れている。戦争中の話である以上、当然といえば当然のことではあるのだが、墜落した戦闘機を見に行ったときにはパイロットの死体と遭遇しているし、彼の勤める駅には、死を満載した列車が通過している。それは上述したように、負傷したドイツ兵であることもあれば、家畜のこともあるのだが、そうしたものが同列で書かれているところからも、非常に巧妙なナチスドイツへの皮肉をうかがうことができる。

「あんたらは全世界を相手にする戦いを仕かけちゃならなかったんだぞ!」

 自分の母国が他国に侵略される、あるいは消滅してしまうといった体験は、幸か不幸か私の個人的な体験のなかには含まれていない。そしてこれは、おそらく戦後生まれの日本人であれば、ほぼ共通の認識であろうと思われる。言い換えれば、自分の母国というものが盤石なものであり、また永遠不滅のものだというのが、私たちの「常識」ということである。

 当然のことながら、この世に永遠不滅のものなど存在しない。過去を振り返れば、あるいは周囲に目を向ければ、国が侵略されたり消滅したりといったことはいくらでも起こり得ることである。ただ私のような戦後生まれの日本人には、その事実を圧倒的なリアルとしてとらえることが難しい。それはまるで、誰かの想像した出来の悪い創作物であるかのように、現実味のないものとして宙に浮いてしまうのだ。だからこそ米澤穂信の『さよなら妖精』といった作品が物語として語られる余地が出てくるのだが、興味深いことに、本書においても似たような構造が見てとれる。

 ミロシュはたしかに戦争の時代を生きている。だが彼は兵士として戦場で戦っているわけではない。もちろん、爆撃を受けたりといった、命の危険を実感するような体験をしてはいるが、それは彼の知る唯一の「日常」でもあるのだ。そして人間というのは、いつの時代も自身の置かれた環境に慣れていくものであるし、じっさいにミロシュもきわめて個人的な悩みを抱えて生きているところは、今という時代を生きる私たちとなんら変わらない。だが、彼はいつのまにかドイツの「厳重に監視された列車」を爆破することに荷担することになる。そしてそこに至る「なぜ」という部分は、少なくとも私たち読者に理解できるような言葉で書かれてはいない。私たちにわかるのは、「もしかしたらこうかもしれない」と類推することくらいでしかない。そしてそれは、私たちの生きる世界ではけっして異常というわけでもないのだ。

 自分自身を殺しそこなった若者が、ドイツという「敵」を吹き飛ばす――はたしてあなたは、そこにどのような光景を見いだすことになるのだろうか。(2014.01.15)

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