【河出書房新社】
『100歳の少年と12通の手紙』

エリック=エマニュエル・シュミット著/阪田由美子訳 



 人はいずれ、かならず死を迎える。これは、ほぼ間違いなく「絶対」という言葉をつけることができる事実のひとつであるが、その事実にあまりにこだわりすぎると、そもそも人がかならず死ぬのだとすれば、今を生きることに何の意味があるのか、という思考に陥ってしまう。だが、人が死ぬということと、人が生きるということとは、まったくべつの問題であるし、またそうであるべきだ。

 たとえば、個人的に気に入らないと思う相手がいるとする。その原因はさまざまあるのだろうが、嫌いだという思いがいくら事実であったとしても、だからといってその人の全存在を否定してもいいわけではない。逆に、どれだけ好きだと思う人がいたとしても、その人の悪い面をそのまま受け入れることができないのと同じだ。そして、それとこれとはべつの問題だ、というある種の切り分けの思考は、自分自身を客体化することによって実現させることができる。

 人は主観の生き物である、ということを、このサイトの書評をつうじて私は何度も繰り返してきた。だが、自分が中心であるという考えは、突き詰めるといずれ「死」という絶対的事実によって破綻する。死が、中心であるべき自分の消滅を意味するかぎりにおいて、それはかぎりない恐怖となりうる。自分が死んだら、この世界でこれまで自分が成してきたことすべてが無意味になる――そう思うかぎり、その人の人生もまた無意味なものと化してしまう。もし、自分が中心だという主観から少しでも離れたところに視点を置くことができたら、それまでとは違った世界が見えてくるはずである。

「いると思えば、神さまは少しずついるようになる。それをずっと続けていれば、完全にいるようになる。そうすれば、いいことがあるよ」

 わずか10歳にして、余命いくばくもないことを知ってしまった白血病の少年オスカーが、神さまに宛てて手紙を書くという形式で進んでいく本書『100歳の少年と12通の手紙』は、キリスト教の信仰というテーマが色濃い作品ではあるが、そこには「キリスト教」というある特定の宗教を賛美するというよりは、むしろ「信仰」のほう――つまり、何かを信じるという心の働きのほうをより重視しようという意図が見られる。それはきわめて精神的なテーマであり、また下手をすると妄執や狂信といったものと結びついてしまうものであるが、同時に人間の弱さと強さを描くのにうってつけの題材でもある。人はいくらでも弱くなってしまうし、またいくらでも強くなれる。その違いがどこにあるのか、どのようにすればより強く生きていけるのか、というのは、私たちにも直結する命題のひとつだ。

 本書に登場するオスカーは、ある意味達観した少年であり、間違いのない事実を知り、それを受け入れていこうとするところがある。白血病の治療のため、脊髄移植の手術を受けたものの、その結果がかんばしくない――むしろ失敗に終わってしまったことを、彼はうすうす感づいている。にもかかわらず、病院の人々や両親はその事実を彼から隠そうとしている。むろん、それは何よりオスカー自身のことを思ってのことであるのは間違いないのだが、まだ10歳の彼には、そうした他人の心について想像することができていないし、またそうする余裕のない、ハードな人生でもあったはずである。

 病院の人たちが、あきらかに以前とは違った態度をとるようになるなかで、ただひとり変わらないのが、オスカーが「ローズさん」と呼ぶ老女だけ。じつは、彼に「神さまへの手紙を書く」よう勧めたのは彼女なのだが、そんなローズさんとオスカーとの心の交流を軸に、物語は彼に残されたわずかな時間のなかでの変化を書いていくことになる。

 上述したように、オスカーは揺るがない事実を求める少年であるが、当初の彼にとって、世界とはほぼ自分自身のことであり、求める事実もまた自分自身のことでしかなかった。じっさい、最初の神さまへの手紙のなかで、彼がまず願ったのは、自分の病気が治るのかどうかを教えてほしいというものであり、それはとりもなおさず手術の成否であり、さらに言えば、それはすでに確定された事実にほかならない。そういう意味で、オスカーはいかにも少年らしい主観のなかに生きていると言うことができる。

 それまで信じていなかったものを信じるようになるためには、想像力が不可欠だ。物語のなかで、オスカーは「神さま」を自分と同じ人間であるかのように擬人化し、そんな彼に手紙を書くという手段をもちいて想像力を膨らませた。当初オスカーは「神さま」を、何でもできる超人のような存在としてとらえていたが、物語が進むにつれて、その認識に少しずつ変化が生じてくる。残されたわずかな生の時間のなかで、その変化はある種劇的なものであるのは間違いないのだが、ここでひとつ考えなければならないのは、オスカーにとって、そしてローズさんにとっての「神さま」とは何だったのか、ということである。おもちゃとか車とかいった「物」ではなく、「精神的なもの」であればお願いしてもいいという「神さま」――それは、オスカーにとっては世界そのものだったのではないか、という確信がある。わずか10歳の彼が知る世界は、自分中心の、ごく狭い範囲の世界でしかない。だが、世界はオスカーが考えているよりはるかに広く、また多様だ。そして世界には、じつにさまざまな考えをもつ人たちで溢れている。

 そうした世界を感じ取るためには、狭い主観にとらわれていては駄目で、より客観的な視点が必要となるのだが、オスカーは「神さま」に手紙を書くという行為を通じて――そして一日を10年ととらえて生きることで、その視点を手にするに至る。それは、けっして自分自身をないがしろにすることではない。自分と同じように、他人もまたものを考え、感情を有するという想像をはたらかせることなのだ。自分の命はまもなく尽きる。だが、死は他の人にも平等に訪れるもの。そして人間の生について、「なぜ生きるのか」ではなく「どのように生きるのか」を考えること――少年の手紙は、そうしたメッセージを私たちに伝えるものでもある。

「本当は未知のものが怖いんじゃない。知っているものを失うのがいやなんだ」

 信じるものは救われる、という言葉がある。いるかどうかもわからない、そもそもどんな存在なのかもわからない神を信じることが、なぜ救われることになるのか、私には長くわからなかったし、またわからなくともかまわない、という気持ちもあった。だが、想像力をはたらかせ、何かを信じ続けるというのは、人の持つ大きな力であることを、本書は雄弁に物語っている。そしてそれだからこそ、オスカーの置かれた立場はこのうえなく重いにもかかわらず、本書全体から漂う雰囲気はけっして暗くはない。むしろ、本当に100年を生きた人間のように、このうえなく充実した生をまっとうしたという輝きすら感じるはずである。生きるということに迷い、悩んでいる人たちに、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。(2011.02.07)

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