【早川書房】
『猫弾きのオルオラネ』

夢枕獏著 



 私は昔から、クソがつくほど真面目な奴だと言われてきている。

 それまでは自分でもあまり自覚がなかったのだが、さすがに二十数年も自分と付き合っていると、自分がどんな人間なのか、嫌でも見えてきてしまうものだ。そして、自分という人間が真面目だという定評は、どうやら動かしがたい事実となりつつあるように思える。友人が言うには「足を怪我したときに、その事実をひた隠しにしてでも、表面上は平気な顔で走りつづける」自分――真面目なうえに妙なところで頑固なところがある私という人物にあらためて目を向けたとき、どうして自分はこんなに面倒臭い奴なんだろうか、と思わずにはいられなくなる。

 人間は孤独な生き物だ。そのことは誰もが認めているにもかかわらず、その孤独に耐えられるだけの強さを持ちつづけることができない。そういう意味で、人間というのは誰もが面倒臭い生き物だと言える。他の動物のように、発情期というものを持たないがゆえに、誰かと肉体関係を持つためにさまざまな駆け引きを演じたり、揺れ動く自分の心に振りまわされ、自分でも止めることのできない衝動に駆られて愚かなことをしでかしてしまう人間――肉体と精神というふたつの相反するものを宿し、それゆえにそのギャップがもたらすものに悩み、苦しむ私たちは、いったいどこから来て、そしてどこへ向かうことになるのだろうか。

 本書『猫弾きのオルオラネ』に描かれている、ちょっと不思議な物語には、強い自己肯定の力が溢れている。泣きたいときには泣けばいい、悔しいときには怒ればいい、つらいときには訴えればいい、きっと誰かが足を止めてくれるはずだから――言葉はさまざまだが、本書が不思議な老人オルオラネの姿を借りて読者にもたらそうとしているのは、頑なな心をほぐし、ありのままの自分を素直に受け入れて前に進んでいくための力だ。

 きれいな緑がかったブルーの、シャムねこのようなイルイネド、全身の白さと、四肢や尻尾、耳の先の黒さのコントラストが美しいジョフレン、もこもこの綿玉のように白く長い毛に覆われたマレット、そして、そんな三匹の猫をひきつれて、ふと気がつくとその場に佇んでいるオルオラネは、痩せたサンタクロースを思わせる老人である。だが、この飄々とした、私たちとはまったく違った世界に生きているかのような老人について、いったい誰がどれだけのことを語ることができるというのだろう。「いるんだかいないんだかわからない」ことを表わすという、なんとも人を食った名前のオルオラネについてたしかにわかっているのは、三匹の猫を使って弾き語りを行ない、聴く人の心を、鬱屈した暗い感情から解放する力を持っている、ということだけである。そして大切なのは、オルオラネと猫たちがもたらす生きるための力であり、彼が何者なのか、といった問いは、まったくの愚問だということである。

 自由気ままな生き物である猫を手なずけ、自由自在に鳴き声を出させることのできる、不思議な雰囲気を身にまとった老人―― 一九七九年に短編集『ねこひきのオルオラネ』として、集英社文庫コバルトシリーズで刊行されたことからもわかるように、その要素だけを見てとるのであれば、本書は間違いなくメルヘンであり、ファンタジーだと言うことができるだろう。だが、一連のオルオラネシリーズをすべて収録した本書を、単なるファンタジー小説としてとらえるには、本書が持っている、どことない艶かしさをいったいどう説明すればいいのだろうか。

 猫という動物は、夢判断などでは、女性的な想像力や直観といったものを象徴していると言われている。その猫を撫でたりつまんだり引っ張ったりするという行為には、どこか女性の体を愛撫するような行為を連想させるものではあるが、それ以上に象徴的なのは、本書でオルオラネに出会うことになるのが青年――しかも、大抵は貧乏で、職を失ったばかりであったり、恋人にふられたばかりだったり、大学受験に失敗したりといった、人生における挫折を経験したばかりの青年だということである。
 夢を追いつづけるには、あまりに現実の厳しさをまのあたりにしすぎており、かといって夢をあきらめきれるほど年老いてもいない、二十代後半という年齢の彼らは、まだ男女の区別さえはっきりしていない子供のような純粋さを持ち合わせてはいない。むしろ、結婚して自分の家庭を持っていない彼らの精神は、女を抱きたいという、理性ではどうすることもできない肉体の欲求に常にさいなまれつつも、その衝撃に素直になることもできず、あるのかどうかもはっきりしない理想に欲望を昇華させようとしている、見ようによっては滑稽な存在だと言える。

 そんな彼らのもとに現われるオルオラネは、三匹の猫を楽器のようにして演奏する。あるいは、この世にはない何かを垣間見せる役割を担う。本書の中ではただひとり、男女の性を超越したかのような雰囲気をただよわせる賢者然としたオルオラネは、人間の心の奥に宿る憎しみや哀しみ、怒りといったものを含めたすべてを解放し、それぞれにその事実と向かい合わせ、そのままでいいんだ、ありのままに生きればいいのだ、とさとしていく。

「ね、あなた、いやなことも、楽しいことも、みんなまとめてひとつのものなのね。どちらかだけを拒否することなんて、できないし、どちらかだけを手に入れることもできないのよ。勇気を持ちなさい」

 オルオラネに身を委ね、声をあげる猫たちは、けっして無理やり鳴かされているわけではない。自分が気持ちいいと思うことに忠実な動物として、猫たちは思う存分声をあげている。その様子に、たとえば快楽に溺れようとしている女性の歓喜の声を想像したとしても、それはけっして不自然なことではない。オルオラネが奏でる曲は、いやなことも、楽しいことも感じることができる、人間が人間であるがゆえに持つことを許された、心というすばらしいものを思い出させるため、そしてその心も含めた自分のすべてをありのままに受け入れて生きていくことを賛美する曲なのだ。それはまさに、不思議な雰囲気をたたえた老人にふさわしい、彼でなければできない仕事だと言わなければなるまい。

 本書を読み終えたとき、読者はきっと、自分が知らないうちにかついでいたものの重さを知り、その重さが少しだけ軽くなっていることに気づくことになるだろう。それはきっと、オルオラネと三匹の猫たちがもたらす物語が、読者の心を解放していった結果に違いない。(2001.04.19)

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